望春堂

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望春堂

「旦那さま、荀涼(しゅんれい)さま!」  鳥の囀りとともに、心地の良い声が回廊から聞こえてくる。柔らかな革靴の軽い音と重なるように己の名を呼ぶ声がだんだんと近づいてきた。荀涼は朝陽がさしてなお薄暗い部屋のなか、ゆっくりと薄目を開ける。透かし彫りのある丸窓から、薄い朝の光が幾すじも差しこんで布団に陰影を作っていた。  先月まで降り続いた長雨が嘘のように、ここ数日は穏やかな気候だ。眩しそうに薄い朝日を手で遮り、荀涼は上体をゆっくりと起こした。白い夜着を見下ろすと、濃茶の長髪がはらりと垂れる。どうやら昨夜もまた、自分はひどく寝相が悪かったようだ。衣がはだけ、合わせから胸板が丸見えになっていた。荀涼は苦笑する。これでは妻の琉鈴(りーりん)に「そんなに寝相が悪いと、風邪をひいてしまいます!」と小言を言われてしまう。彼はもう風邪など引かぬ身体となって久しいのだが、琉鈴はまだそれがよくわからぬようだ。  ぼんやりとしながら乱れた衣を直していると、やがて、扉からその名の通り、鈴のような声を揺らして彼の妻が顔を覗かせた。 「おはようございます。旦那さま!旦那さま、お花が……!……あっ」 「おはよう、琉鈴」  結い上げた黒髪で、貝細工の(かんざし)がからりと揺れる。彼女は夫の寝起き姿を見て頬をほんのりと染め、恥ずかしそうに俯いた。 「もっ、もっ、申し訳ありません。あまりにも庭に咲いたお花が綺麗だったものですから、お見せしたくて……、その、まだ起きたてでしたのね」 「いや、気にするな。私はまた寝坊したようだ。とっくに起きる時刻を過ぎているのだろう?どうも、宮殿を出てからは寝坊癖がついていけないな」  柔らかく微笑んで、荀涼は衣を直し妻を招きよせる。彼女は嬉しそうな顔をしながら、ほら、このお花です。と小さな花を見せてきた。黄色と白が混ざりあった小さな花弁は、春蝶の羽のように可憐だ。荀涼は長い指でそっとその花びらをつまむ。花粉なのか、きらりと細かな粒子がひとつ、舞いおちる。 「こんな変わった模様のかわいいお花がたくさん咲いているのです。荀涼さま、なんのお花でしょう?ご存知ですか」  見たことがありません、と首を傾げる。荀涼は小さな花びらを光に透かしてみた。相当に長い彼の人生でも、見たことのない種だ。 「あの庭では、名も知らぬ花がいつの間にか咲いていることがよくある。これは琉鈴がみつけたのだから、貴女が名をつければいい」 「わたしが……?いいのですか?」  彼女は驚いて荀涼を見上げる。ここに嫁ぐまで、彼女にはほとんど自由がなかった。自分で物事を決めることなど、たとえそれが戯れの名づけ遊びであっても、許されなかったのだ。だから彼女にとって荀涼の提案は嬉しくもあり、同時にとてつもない難題だ。彼女は宙を睨むようにして頭を巡らせる。そうすると自然と口が尖ってゆく。その様を見つめるのは、荀涼の密かな楽しみでもあった。 「時間はいくらでもある。好きな名前をじっくり考えるといい」  荀涼が優しく彼女に声をかける。琉鈴はゆっくりと笑みを深めた。花を胸に、とても大事な宝物のように抱く。 「庭にたくさん咲いています。旦那さま、あとで見にいきましょう」 「ああ。店を開けがてら、貴女と少しだけ花見をしようか」  琉鈴はにっこりと顔を綻ばせた。  ここは「望春堂(ぼうしゅんどう)」、蝋燭(ろうそく)屋である。店内にはひと束銅貨一枚で買えるものから、一本金貨数十枚する美術品まで、さまざまな蝋燭が棚にぎっしりと並ぶ。客はそれぞれ気に入った蝋燭を選び、奥にある古寺を目指すのだ。  紫瑞(しずい)国の西に堂々と聳え立つ霊峰、玉凛(ぎょくりん)山。その中腹にある古寺。前王朝時代に建てられたという寺は、風光明媚な景色とともにこの紫瑞国の観光名所でもあった。人々はここに備えつけられた燭台に蝋燭を灯す。古の寺のなかで無数の焔がちらちらと揺れるその幽美な様を、皆心震わせて堪能するのだ。  望春堂の店主、荀涼はかつて宮廷の神官だった。若くして引退した彼は、ここで蝋燭屋を引き継いだ。美貌の持ち主である彼が祈りを込めた蝋燭はご利益があるとされ、国の各地からわざわざ彼の店を訪れる旅人も多いという。なかにはとんでもなく身分の高い者までいるとの噂だ。  荀涼は、その冷美な美貌と神官を突然辞めたことでいっとき人々の注目を集めたが、当人は至って穏やかな性格で、首都を後にし先ごろ迎えた妻の琉鈴を大事にすることがもっぱらの生きがいであるようだった。  朝食をとると荀涼と琉鈴は庭に出た。しばらく可愛らしい花を目を細めて見つめていた琉鈴が、ふと顔を上げた。彼女は遠くを見つめる仕草をする。 「お客さまがいらっしゃいましたよ!荀涼さま」 「そのようだね。では、いこうか」  彼が腕を差し出すと、琉鈴は恥ずかしそうにその手をとった。 「今日はどんなお客さまでしょうか、ね?旦那様」
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