茶館の主人1

1/1
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

茶館の主人1

 「望春堂」と掲げられた重く分厚い扉門の前で、仲桓(ちゅうかん)は躊躇っていた。長い長い道をはるばるやっては来たが、本当に入ってもいいのだろうか。ただの蝋燭屋だとは言うが、店主はもと宮廷の神官なのだ。自分のような庶人が訪れてもいいものかとなかなか踏み出せずにいた。傍にいる妻も、不安げに扉を見上げるばかりだ。だがいつまでもここに立ち尽くしているわけにもいかない。仲桓は思い切って扉を叩こうと前に出た。すると、音もなく内側から門扉が開く。 「こんにちは」  中から顔を出したのは娘だった。歳の頃は十八、九だろうか。薄桃色の襦裙(じゅくん)を身につけ、結い上げた黒髪に美しい貝細工の簪を差している。驚いた仲桓が何も言えずにいると、娘はにっこりとした。 「ようこそ、望春堂の蝋燭をお求めですか?」 「あ、ああ、はい……そうです」 「いらっしゃいませ!ようこそお越しくださいました。さあさあ、中へどうぞ」  彼女は戸惑う仲桓とその妻を促して手招きする。 「お店の中まではまだ緩い石段が続きますが、中でたくさん蝋燭を選んでいただけますよ。さあ行きましょう」  彼女は明るく笑った。その笑顔に背中を押されるように、仲桓は思い切って尋ねる。 「あの……。ここで、特別な蝋燭を買えるという話を聞きまして」  娘は瞬きをして頷いた。 「はい。特別な蝋燭ももちろんご用意していますよ。ご案内しますね」  仲桓は妻と密かに顔を見合わせる。この純真そうな娘は使用人だろうか?仲桓は自分の欲しい「特別な蝋燭」のことを彼女がきちんと理解したのか少し不安になる。だが娘はすでに門の奥へと続く石段を登りはじめていた。  とにかく、店主に会えれば問題ないだろうと考え直し、仲桓は妻の手をとり、彼女の後を追いかけることにした。 「不便なところで申し訳ありません」  石道をしばらく進むと、琉鈴は彼らを気遣い頭を下げた。「もうすぐですからね」と励ますように言われあたりを見ると、いつのまにか山のかなり高いところまで来ていた。少しだけ、空が近い。緩い道を進んでいただけなのに、こんな高所に来れるものだろうか。仲桓が首を傾げていると、やがて石段の上に宝形造の四阿(しあ)があらわれた。瑠璃瓦(るりがわら)を使った美しい屋根が青空に映える。四本の柱に囲まれた中には、小さな椅子と(つくえ)が備えられていた。 「お疲れになったでしょう?こちらでひと休みいたしましょう」  琉鈴は仲桓夫婦を四阿へ招き、そこへ座らせた。出された冷たい茶を夢中で飲み干す。彼女はその様子を穏やかに見守っていた。 「特別な蝋燭をお求めの皆様には、ここでひと休みしていただくのですよ。ほら、とても景色が良いのです」  彼女は手を指し示した。見下ろすと、彼がいま登ってきた石段は山の勾配に沿っており、裾野には玉凛の地が扇状に広がっていた。その向こうに、この国の王都が霞のように浮かんでいる。ときおり陽光に反射して煌めくのは、皇帝陛下のおわす殿の屋根にあるという龍の瞳だろうか。仲桓は恭しくそちらへ首を垂れた。この山を挟み、東と西で分かれる二つの国、どちらもかつては戦で大きな血を流したが、今は平和な世となり久しい。自分が安心して商売をできるのも、その平和な世を作られた歴代の皇帝様の治世によるものなのだ。 「どうされましたか?」 「いえ、美しい景色だなと」 「そうですね。私もここがとても好きです」  彼女は柔らかなため息をつくと、穏やかに尋ねた。 「お客さまは、特別な蝋燭をお求めですね?よろしければ理由を聞かせて頂けますか?」  その尋ね方があまりに自然だったので、彼はつられて口を開いた。 「その、私の家は侑林(ゆうりん)県にありまして、街で茶館を開いております」 「まぁ、そんな遠いところから来られたのですね」  さぞ大変だったでしょうと気遣われたが、仲桓は首を横に振った。妻も小さく首を横に振る。 「ありがとうございます。長い道のりで妻は多少疲れていますが、このとおり大丈夫です」  彼は話を続ける。 「ところで、うちには息子が一人おりまして、いや、おったのですが、一昨年でしたか、これがいきなり武官になりたいと言い出しまして……」  この地に戦はないが、山野では野盗も出るし、ときには魔の気を纏った鬼などが地を荒らすことも多い。各県では常に軍を補強しており、血の気の多い若者を募っている。彼の息子は商売を継がずに、軍へ入るというのだ。 「たった一人の息子です。私の跡を継がせるつもりでしたからもちろん反対したのですが、聞き入れやしません。国を守るの一点張りで……。私も妻も怒ることに疲れてしまってもう、好きにさせようとなったのです」  娘は、大きな瞳を開いて真剣に話を聞いている。彼は茶器をきゅっと握りしめた。隣で妻は涙を流している。 「しばらく放っておけば頭を冷やしてくれるかなと思っていたんですが、とうとうあいつは一人で出発してしまいました。挨拶もなしに」  仲桓はうなだれる。 「これでは勘当同然のようなものです。どこへ赴任したのかも全くわかりません。そのあとも妻は泣き暮らすばかりで。そんなときです。店でここの噂を聞きました」  彼が聞いた噂は、遠い玉凛山には望春堂という店があり、特別な蝋燭を売っている。その蝋燭に火をともすと、大切な人の今の姿を見せてくれるというものだった。 「茶館にはいろんな方が来られます。この話を聞いたとき、これだ、と私らは喜びました。だから、こちらの蝋燭が欲しいんです。妻のためにも」  娘は泣いている妻にそっと手を重ねて、優しく囁いた。 「わかりました。そのようなご事情があったのですね……。はるばる望春堂まで、よく来られました」  大きな瞳を揺らして二人を見ると、衣をふわりと波立たせて立ち上がる。 「それでは何をおいても当店の蝋燭をお使いくださいませ。主人の荀涼も、快くその灯をお貸しすることでしょう」  仲桓夫妻は不思議そうに顔を見合わせた。 「あの、私らは蝋燭を家に持って帰りたいのですが……」  彼女は少し寂しそうに微笑む。 「残念ですが、お客さま方のおっしゃる『特別な蝋燭』は、外に持ち出すことはできないのですよ。私の旦那様がこの店で火をともした時にだけ、蝋燭はその力を発揮するのです」  古寺の参拝客は、別の道で寺まで行くという。ここは特別な蝋燭を求める者だけが通される四阿なのだ。 「それに、誰にでも見えるということではありません。主人が灯しても、お望みのものが現れないこともあります」 「それは分かっています。もともともう会えないものだと思っておりましたから、無理を承知でこちらに縋ってやってきたのです」  二人は真剣だ。息子に会いたい、そのためにはるばるやってきた。仲桓はもう、何日かけて歩いたのかも記憶が(おぼろ)だ。そう話す間にもどんどんと皺が増えていくように見えた。  琉鈴は夫婦を見つめる。穏やかながら、どこかが痛むような顔つきだ。そのとき、四阿を囲む白い忍冬(すいかずら)が風に揺れた。琉鈴は耳を傾けるように花に顔を向ける。からりと貝のかんざしが揺れた。 「では、こちらへ。主人の準備が整ったようです」 「え?ということは、私たちに見せてくれるのですか?」  身を乗り出す夫婦に琉鈴はしっかりと頷く。 「ええ。息子さんに会えるといいですね」  彼女は四阿の向こうにある、望春堂を示した。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!