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※  仁成の制服を着替え分として与えられ、守れる範囲の譲歩を受けて臣が海に入ってしまう頻度は減った。確かに回数的には減ったのだろうが、仁成の心が譲歩した分で気にならなくなった部分もあるのだろう。苛立つ時間も叱る回数も格段に減った。臣が約束を守るだけ、仁成の気も鎮まっていくのがよくわかった。  だが、勿論臣は海に入ることをやめたわけでもない。仁成との約束通り、必ず同じ制服を二日以上着てから海に入った。  最短は二日、それでも約束を守られているという安心感で仁成も咎めることはしなかった。このまま、徐々に最短の日数を長くしていくことも可能だろう。  清司を介すことなく臣と過ごす時間が増え、補助のない臣の言葉や行動を見聞きした所為もある。考え、可能性を繋げる度に理解が進んでいくようだった。正確には理解したということでもない、これがきっと〝赦す〟のひとつなのだろう。  いまや仁成には理由の有無も必要なく、約束を守る臣を迎えに行くのを煩わしく思うこともなくなった。道中に苛立つ必要がなくなって、「またか」と迎えたあの日々も「帰るぞ」が一言目に上がるようになった。  仁成が取り決めた約束も、その制服も、互いの精神衛生上良い方向へと作用した。この日まで、そのデメリットを仁成自身が自覚することなく過ぎた分では。  この日店が忙しく、高校の授業が終わった時間でも臣を迎えに行けず、自力で戻るかと思っていたが仁成の手が空いても臣は戻らなかった。仕方なしと仁成が迎えに出た頃にはもう夕暮れで、臣を連れ帰る頃には冬空が真っ暗になってしまうだろう。  明るい内に辿り着いた海では臣が少しばかり浜辺に近い場所で座り込んでいて、流石にこの寒さでは入りきれないのかと思うと無意識に口元が緩んだ。このまま、寒さに負けて奇行をやめてくれたら。臣にはその限りではないであろうが。  遠目で見た印象の通り、臣が濡れていたのは腰までで、それを仁成が指摘して笑うと臣は口の中で言葉を濁らせた。  数回言葉を交わして砂を踏みしめる音が波の間にまに仁成の背中を追いかける。びしょ濡れの弟を車に乗せて帰路について、いつも通り、いつも通りの様だった。  先に自宅へ上がった仁成がバスタオルを持って戻ると、臣は張り付く制服を丁度、体から引きはがすところだった。布も肌も完全に濡れてしまっている所為でなかなか足も抜けない。そうして藻掻く臣の足から引き抜かれたのが自分の制服だと気が付いて、瞬間仁成はいたたまれない気持ちになった。  目のやり場がない。〝自分の〟制服を脱ぐ臣に、仁成は目を背けた。自然と床に突き刺さった視線の先で制服が落ちる。目の前には、いつも通り半裸の臣がいるはずだった。 「置いとく」  咄嗟に、仁成はバスタオルを手放し、それが床に落ちるのと同時にキッチンへと籠った。反応する臣の声はない、なにをすると決めているわけでもなく、ただシンクに向かう。そして取り繕うように冷蔵庫を開けた時、随分遅れて「ありがとう」と言う臣が仁成の横を抜けて風呂へと向かった。  ほんの数秒後、仁成にとって右手にある壁一枚挟んだ向こう側で入浴する臣の気配と、その音が聞こえ始める。今の仁成にはそれすらも、奇妙な感覚となって身動きすらも止めてしまった。  無意識に押し殺した自分の呼吸はあまりにも浅く、静かに繰り返す所為で苦しい。そんなことをするつもりもなく音が鮮明に聞こえる、壁一枚向こうの臣がいる浴室から聞こえる音に神経が集中して、余計に仁成の感覚を混乱させた。  いつも通りのはず、そのはずだった。しかし苛立ちに任せていたものがその蓑をなくして露わになっていたことには無自覚だった。意識しないでいられた感情が、最早隠しようもない。  この日から仁成の心は気が気ではなくなり、抑え込む蓋のない感情は肥大していくばかりだった。
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