1/1
29人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

 「少し変わった子かもしれないけど」と、ある日急に弟が出来た。というのも変な話で、相手にしてみれば自分の叔父にいつの間にか子供がいた程度にも思えているのかもしれない。それ程お互い突然に、現れた。  その日から弟になるそいつと初めて会って、申し訳程度でも事前に聞いていた人物像とはまるで当てはまらない印象だった。変わった子だと聞いていた。一人、家族から離れて暮らさねばならない状況で、この家に来るのだということも。けれど実際には親元を離されるようなすれた様子も、思春期特有の苛立ちもない。  真っ黒な髪も、まだ少し声変わりの名残がある言葉にも、こうなる必然性を見いだせなかった。  説明で出た「少し変わった子かもしれないけど」は、もしかしたらこちらに気遣って出た言葉なだけだったのかもしれない。うまくやってあげてねとか、面倒を見てあげてねとか、そういったあからさまな言葉を選ばなかった所為で出た、揶揄かなにかなのだろうかと。初日の、その、ほんの数時間前までは本当にそう思っていた。  その意味はすぐにわかった。その言葉の正しさも同時に。  姿を消したのだ。荷解きも終え切らず、隣並んだ部屋の中にも、廊下にも段ボールが残ったままの状態で、本人だけが忽然といなくなってしまった。  いつからいなかったのか、そもそもいつから隣から音がしなくなっていたのかすらもわからなかった。初日から、もううまくやれていない。慌て、困惑する自分に反して彼の叔父は落ち着いていて、「ああ」と笑った。そうして「迎えに行って」と示された場所にいたのだ。街の半面に広がる海、その砂浜で、全身ずぶ濡れになって下半身を海に浸した状態で、座り込んでいた。  そこで初めて呼んだ名前に振り返った顔は先程までの印象に変わりはない。丸みを帯びたような穏やかさで、けれど、わからない感情に染まってもいた。  どうしたものかと思った。どうしたらよいのだろうと。  これが突然出来た弟の問題だった。少なからず、この家の中では。  弟は、この日から時間も状況も、天気も季節も顧みず海に入った。時には登校したその足で、時には下校から家に戻らず海の中にいる。タチが悪いのは制服でも構わず入ってしまうことだ。朝に着て出た制服が上下全て海水に浸って、夏場では潮まで浮かんだ。これが、ずっと続いている。突然出来た弟の奇行は初日から始まり、冬を跨いだ三ヶ月後にも未だ変わらず、ずっと。  何故そんなことをしてしまうのかと問う言葉にもロクに答えない。最初こそ詫びて「そうしたかったから」と応答していたのも一か月が経たない内に必要なくなった。問う前に「またか」と思い、口に出す自分が出来上がってしまっていたからだ。  結局、ずっとなにが引き金になっているのか、その原因のひとつも明らかにならないまま三ヶ月が過ぎた。しかし彼の叔父が笑って「またか」と言うので〝この一件〟が起こした問題でもなさそうだった。「少し変わった子かもしれないけど」それが指すものこそがこの奇行で、弟の問題だった。  夏を終えて秋が過ぎ、冬を跨いだこの頃はずぶ濡れで帰って寝込んだこともある。それでも病み上がりにはまた、海に入る。何度も、何度でも必ず。  同じだけ、自分自身も何度もその機会を逃して来た。彼の叔父がわかっていてのことならばそれでも良いのだと、引け目もあって理由は聞けないままだった。三ヶ月も経って、理由のひとつも明らかにならない。だからこそ三ヶ月経った今も弟の奇行には苛立ちばかりが先んじてしまう。知らない部分を見ないままにして、自分の大事なものばかりに気が回ってしまっていた。  本格的な真冬には、きっと凍るだろう。真夏に潮が浮かんだよりは曖昧に。  それでもきっと弟は止めない。服を着たまま、海に入ってしまう。例えば今日、今のように、制服のままだろうと。 「またかよ」  雪はまだ降らずとも十月の空気が海の冷たさを補うわけでもなく相乗して体温を奪う。半分夕に染まった空の色だけでは温もれやしないのに、見続けるだけでも寒い。毎度見つけて、連れ帰る肌にも冬を乗せた海風はもう本格的な冷たさで、肌と足りない布の下から全身を冷やした。濡れたままでこの風を浴びて凍えないはずもないのに、弟にはそんなことを気に留めた様子もない。  海で見つける弟は、時には下半身だけを浸らせて座って、時にはどう入ったのか頭まで全身が濡れた姿で波に打たれている。今日は後者、真っ黒な髪は頭の形に張り付いて海苔の塊か海坊主のようだった。  落胆の声に反応して振り向いた。どれだけ怒られても咎められても、三ヶ月間、徐々に怒気さえ含むようになったこの声だけには毎度律義に振り返った。まるでここまでが自分の奇行のワンセットのように、毎度必ず。 「クリーニング、上がって来たばっかだろ」 「なんでここにいるの?」 「ここじゃないことなんてなかったろ」  きちんとした反応を受けてから、踵を返す。歩きにくい砂浜を踏みしめる自分の足音に混じって飛沫が鳴って、もうひとつ砂を踏みしめる音が続く。  海で見つけて落胆と苛立ち、一言交わして陸に上がる。ずぶ濡れの弟を車に乗せて家に戻る。もう三ヶ月も続けているのだから、案外自分も気が長い。 「またかぁ」  帰宅し、〝店側〟から入るとお決まりの言葉で店主が迎えた。店主で、弟の叔父で、家族代わりで、他にもきっと損な役割があるのだろう、声の主は商品に相応しい朗らかな声音と表情で言った。  全身というだけではなく、弟が濡れて帰った時には必ず店側から入るというのが初日からの決まりとなった。店内ならばいくらでも濡れて問題もない。扱う商品は花と観葉植物、店内の床はどこかしらが常に濡れていて、弟から落ちる水の多少さではなんの支障にもならなかった。  店先で回収したA面ボードには『quet』という店名が黒に白字で書かれ、その丁寧さは書いた本人の性格が滲み出るようだった。勿論、書いたのはこの店の店主で、間違っても弟や看板を片付けた彼ではなかった。  この花屋はその名の通りのような一族が続けて来た。声の主はその三代目の花村清司(はなむらせいじ)、三か月前彼の元に来た甥もまた花村で名前は(おみ)、高校生活が残り一年もない状態で清司の元に来た。  その、甥よりも長くこの店と、家に居る。けれど〝彼〟だけは彼等と同じ花村ではなかった。  店と自宅が一体になった建物の自宅側玄関には二つの表札がある。ひとつは花村、もうひとつは水澤仁成(みずさわひとなり)というフルネーム。 「もう、着替えを持ち歩くのはどうなの、臣」 「なんで?」 「制服が濡れたらクリーニングなんだよ。多分、三ヶ月で俺の一年分以上のクリーニング出してるなあ、もっとか。初めて聞くよ、クリーニング破産とか」 「せめてガワだけでも脱ぎゃいいのに。わかっててやってんだろ」 「臣、そこで脱いで入ってね。ああ、お客さん来たらびっくりするから、ちゃんと隠れて。――仁成、タオル持ってきて」  ここまでも一連のひとくくり。三ヶ月の間、花村家ではずっと続いている。登校した臣が制服のまま海に入り、見つけて連れ帰り、店で着替えさせ、仁成がタオルを持ってくる。臣が風呂に入り、清司か仁成、手の空いたどちらかが夕食を作る。海水に浸った制服は翌日、配達のついでに仁成がクリーニングに出す。  臣が現れた三ヶ月前より更に前のこと、花村家は少々大変な時期だった。それまでにも清司が家族のことで時間を殺ぐことはあったが、その頃は本当に大変で、離れて暮らす両親と弟の元へと何度も向かって家を空けることが多かった。そうして清司が家を空ける前には必ず家族からの電話があって、仁成の目の前では受けないようにはしていても同じ建物の中、ほんの少しだけ離れた場所で怒鳴り声をあげる。あれだけ穏やかな清司が、家族に向かって怒りを向ける様を何度も見聞きして来た。  もっと、ずっと前からにもそんな素振りがあった。今思えば、まだまだ子供だった仁成に気遣って今以上に見せないよう徹底してきたのだろう。  それが今回ばかりは集中してその時期に続き、期間は二ヶ月以上続いたか、不穏ではあったがその状況を不安に感じることはなく、仁成は清司ならばきっとうまくまとめ上げるのだろうと思っていた。その、ある日。  ある日、近頃の通り二日家を空けた清司が夜が明けて午前中に戻り、わざわざ店を閉めてまで「真面目な話」を始めた。 『弟が出来ます』  この二ヶ月余りと二日家を空けたことに詫び、次いで出た言葉がそれだった。  実際のところ仁成には清司とその家族、臣になにが起きてこの結果なのかは清司が明言せずにいるのではっきりとはわからない。けれどその二ヶ余りと、これまで清司と過ごした年月の間に幾度となく起きた同じ問題での諍いだということは、清司の口から出る言葉や、都度実家へと向かう様子だけでぼんやりと把握出来ていた。  それを清司も察しているのだろう、この期に及んでもその問題については明言せぬままだったが、なにより仁成が清司の決定に不満を言う理由を持つわけでもなかった。血の繋がりも、僅かにあった繋がりさえも残らない自分を今の今まで当然のように側に置いてくれている清司に、仁成が嫌だと言うはずもなかった。  清司の立場であれば、なんの報告もなしに臣を連れて帰ることも可能なはずだった。だがそうはせず、共に暮らす自分に前もって宣言することに相応の決意があるのだと仁成にはわかった。つまり、一過性ではない。単に一時的に預かるような気でもなく、この先もずっとそうなのだという決意なのだと察せた。  その決意をわからないような頭でもなかった。なによりも、仁成は清司の決意を自分自身の身を持って見てきている。どれだけ堅く、どれだけ真剣であるのかも。  清司は真面目な人間だった。大事なことは子供だった仁成にもはっきりと説明をして、念入りに相談もする。  「真面目な話」からものの六日後、清司と暮らすこの家に臣が現れた。『これ』が花村家が互いに怒鳴り合う中心にあり、『真面目な清司』が怒鳴り声を上げねばならないだけ、ものの六日の間に諸々を済ませてまで保護しなければならなかった存在なのだ。  それが、海に入ってしまう。制服のまま、そもそも服のまま海水に浸ってしまう。清司の言う「少し変わった子かもしれないけど」がそれを指すのだとして、その理由が恐らく花村家の問題なのだろうことも、よくわかった。仁成はけして、口にはしないが。  洗面所からタオルを持って戻ると、店の隅、自宅のダイニングと繋がる入口の前で臣が制服を脱いで待っていた。残念ながら今日は頭から足まで全身が海水に浸った日で、まるで海の生物が陸に上がったようだ、脱ぎ捨てられた制服を持ち上げるにも床にへばりついてしまったように重い。  風呂へと進む臣の足取りはなんとも呑気で、毎度無残な姿になる制服の黒い塊に仁成は独りよがりな苛立ちを覚えてしまう。  この三ヶ月間、ずっとそうだった。自分の感情とは全く違う、臣には大事にする必要もない部分なのだとはわかっていても。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!