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※  翌日、深夜に花の仕入れに出る清司が開店までの仮眠をとるこの時間、登校前の臣と仁成は決まって二人で朝食を済ませていた。仕入れの関係で朝の調理は必ず仁成が担い、夜は手が空いた方が、昼は清司が作ることが多かった。  とは言っても、朝から重量感のある食事をするわけでもなく楽はさせてもらっている。花村家の朝食はその日の気分で多少入れ替わりがあっても米と味噌汁に卵の和食か、パンとヨーグルトくらいの簡単なものと決まっていた。今朝は後者、バターを乗せてフライパンで焼いた食パンに、適当に取り分けたヨーグルトを出すのみだった。  洗面所で身支度を終えた後、もう一度部屋に戻った臣は高校指定のジャージを纏ってダイニングに現れた。海に入ってしまった翌日は決まってこう、担任にも学校にも説明が済んでいるのか、臣は一度も咎められたことはなかった。仁成以外には。 「今日は海に入るなよ」  花村家では朝の定番、濃い目のカフェオレを仁成が差し出し、丁度、臣は食パンに噛み付く寸前のところだった。けれどその所為でもなく、仁成のこの言葉に返事は返らなかった。 「クリーニングだって安くないぞ。それを週に二度も三度も、考えろよ」 「うん」  寝ぐせもない直毛の真っ黒な頭は返事と共に俯かれてしまう。正面に座った仁成の顔も見ることなく、どれに対しての応答かもあやふやなものが返って来た。これも、何度もやり取りしたもののひとつだった。言ってもやめないのだろうことを知った上で言う、言われるとわかっていながらやめず、返す言葉も決まっていた。  静かな朝食時間はその後も続く会話もなく進む。臣が海に入ってしまった翌日は必ず、その当日よりもずっと静かな朝となってしまう。わかっていても、と、互いにそう思っているだけこの時間は静かになった。  「ごちそうさま」と「いってきます」を同時に済ませて食後、ほぼすぐに登校する臣を特に見送るでもなく、朝食の後片付けを終えた仁成が音を立てずに済む家事だけをこなしていると一時間程で今度は清司が二階の自室から降りてくる。部屋数の理由もあるが、二階に清司の部屋、一階に仁成と臣の部屋が隣り合って並んでいるのは深夜早朝に仕入れで出入りして眠る為の配慮であった。  臣を終え今度は清司の分の朝食も仁成が用意する。この分はもう随分と長いこと続けている、いつもの朝だった。 「元気に学校行った?」 「あいつがイキイキしてんのは見た事ないから」 「そうだなあ、臣がはしゃいでるのなんて小学校の頃までだったかなあ」 「随分すれた子供だこと」 「仁成はもっとじゃなかった?」  臣よりも、もっとずっと幼い頃に仁成は花村の家に来た。初めて清司に会ったのは一桁の終わりの頃、その時にはまだ、血縁上の父もここにいた。  臣と同じメニューを清司に出す、けれどそこには臣とは違った気持ちがある。穏やかな清司と穏やかな時間を過ごす、続く温かさが仁成の心を救い、同時に罪悪感が締め上げてもいた。 「今日は濡れて帰って来なきゃいいね」  清司がそう言ったのは八時半、店が開いて配達に向かう足で仁成がクリーニング店に行き、もう顔見知りになった店員に「また?」と聞かれたのが十時を回った頃だった。  昨日全身ずぶ濡れになった臣を乗せた後の処理がまだで、どうにか出来るわけでもないが車内が潮のにおいで堪らず助手席の窓は開け放ったままになった。この冬間近の時期に常に窓を開けたまま、車のスピードで入り込む風は想像以上に冷たい。このまま、このまま臣があの奇行をやめずに真冬を迎えたら、ずぶ濡れの臣だけならず自分までもが凍ってしまいそうだ。  寒さならまだ、なんとか着込みながら暖房でどうにかなるかもしれない。だが、潮のにおいはどうだろう。今より更に寒くなって、それこそにおいを飛ばす為に開けた窓に合わせて暖房をつける。きっと、においは熱されて一層強くなるのではないか。  これは、ずっと続くのか。少なくとも臣の高校卒業までの間、残り五ヶ月、ずっと。  この車に、寒さも潮のにおいも、まるでそれが存在の殆どのような臣自身が染みついているかのようだった。  苛立ちが積もる、なんとかならないものか、ほんの一瞬でも大真面目に考えた仁成の気持もその数時間後には打ち砕かれてしまった。  時刻は暮れてしまうほんの前、その割には空が夕に染まり始めた頃。店と配達先を何度か往復していた仁成の目に見えてはならないものが見えてしまった。  それは今朝見送った後ろ姿そのままで、今まさにいつもの海のある方向へと歩んでいく。見慣れた頭、見慣れたジャージ、見慣れた呑気な歩み、背格好。都会でもあるまい、こんな狭い街でもう、見間違えるはずもなかった。  「うそだろ」と零れた時には同時、仁成はすぐさま行く道を変えて車を走らせていた。まだ二件、配達は残っていたが全くそれどころではなくなってしまった。  今朝も言った、昨日も叱った。それなのに、それなのに。 「臣!」  車を降りるなり、同時に仁成は声を荒げてしまったがそれには反応もなく、続けざま名前を呼ぶとその真っ黒な頭が振り向いた。真っ黒の代わりに現れた表情はやはりなんとも呑気で、今まさに叱られる瞬間だということにも気が付いていないような気の抜けたものだった。  車を降り捨てて駆け寄る仁成の圧もまるで届いてなどいない。朝部屋を起きて出た時となにも変わらない表情のまま、現れた仁成の到着を待ってすらいた。 「どこ行く気だ、海入んなよ朝言っただろ」 「入ってないよ」 「じゃあなんで学校終わりにそのまま海に向かって歩いてんだよ、制服は今日、ジャージまで駄目にして、そんなに行きたくないんならまず理由を言えよ!」 「学校に行きたくないんじゃないから」 「じゃあなんなんだよ、なんでそんなことでわざと清司君に迷惑かけたがるんだよ。三ヶ月も待ってんだぞ、お前が自分からやめるの、毎日毎日同じこと言って、それでもまた同じこと言うんだぞ、なのになんで」  仁成の目に、臣が酷くしょげて見えた。そう気が付いた瞬間には突然言葉が止まって、急激な静寂が漂った。  夕に染まった海を背後に覗かせて、それにも染まることのない黒い頭は俯いて、伏せる目元に前髪が揺れている。その所為か、そうではないものなのか、臣は何度も繰り返しまばたきをした。  冬を乗せた海風の冷たさも相まって、仁成はなにか、とても酷いことをしてしまった気分になって、同時に苛立ちも沸いて出た。何故、何度言っても聞かず、やめて欲しいこともやめてくれないのは臣で、自分がこんな気分になってしまう道理などないはずだった。  大事なものを大事にした、ただそれだけのはずが急に心が苦しくなった。多分、きっと今、互いに同じ顔をしているのかもしれない。 「来たかったんだ」 「……昨日も来ただろ」 「それでも」  「まいにちでも」、まるで平仮名を並べただけのような言葉は遠目に見える海であがる波に押し出されて行くように掻き消えた。  「帰るぞ」と無理矢理引き連れて車に乗せた臣の体はこれまで連れ帰ったどの日よりも重く、この場に留まりたいのだという小さな抵抗を感じたが、仁成は構わず助手席に押し込んだ。  臣が海へ留まりたい気持ちと、何度叱られても海に〝戻ろう〟とするその譲れなさも、仁成には理解出来ないわけでもなかった。どうしてもと譲れない、それだけはと適当にはしたくない、自分以外の他人にはわからないものであることも。  それはまさに臣の奇行をやめさせたい気持ちと同じもの、重要に置くものが違うだけ、譲れない思いが同じな所為でただ海に入りたがる弟を仁成は許せなかった。
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