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「そうかあ、その手があったかあ」
嬉々として清司が言ったのが夕食の席でのことだった。その日あったことを話し、海に向かう様の臣を配達中に拾った話題で始まった。どうしても入ってしまうのなら、そうしてしまおう。完全にとまでは行かずとも、今日のように臣を拾うことで多少の回避をしようと話は進んでしまった。勿論、今日と同じ手順で、ということだ。
「仁成、毎日じゃなくていいから、行けそうな時には臣を迎えに行ってあげてよ。クリーニングの受け取り後とかでもいいからさ。そしたら、少しはお互いに譲歩になるんじゃない?」
「ね」と同意を求める動きに仁成は反応せずにいられたが臣は促されるままに返事をしてしまった。「僕はそれでいいよ」、その意味を理解していないのか、あまりに軽率で仁成は耳を疑った。海を目の前に、毎日でも来たいのだと少なからずの抵抗をしたばかりではないのか。それとも、本当にそれが臣にとっての譲歩とでもいうのだろうか。
この日から、仁成は臣を迎えに行くことになった。けれど流石に高校へ直接ではない。下校後、海に向かう臣に合わせてその道へ行く。そして余裕があれば臣に付き合って海で幾らか過ごし、なければ拾って帰宅する。互いの譲歩、そんな日々が始まった。
とても、奇妙だった。
臣は、仁成がいる状態では海に入ろうとはしなかった。始まる前から怒られるのも嫌なのか、圧があるのか小言が面倒なのか、仁成が側にいれば砂浜から海を眺めるだけに留まった。一言二言は交わす、けれどそれがなければ静かに、ただ見ている。仁成が帰ると言うまでじっと、海を眺め続けているだけだった。
海に入ってしまう以外は至ってまともで、いっそ穏やかな性格で言葉も丸い臣とは過ごしやすさすらも感じていた。耳にも心にもうるさくない、だからこそどうして、そんな人間があんな奇行を繰り返してしまうのかが気がかりになった。
共に過ごす時間が増えた分だけ、仁成は臣の奇行の原因を考え続けた。それさえなければこんなにも穏やかなのだと知ったからには、考えずにはいられなかった。これが心地よいと感じたからには、余計に。
海が大切なのか、この場所が海だからなのか。海に入ることが目的なのか、この海に来ること自体の意味なのか寧ろ入ってしまうことは副産物なのか。この奇妙な習慣が始まってから暫くが過ぎて、近頃の仁成にはそれに予測が付き始めていた。
仁成は清司と花村家のやり取りを長年見続けて来た。その年数の分積み重ね、はっきりとした事情を聞かずとも端々の情報を繋ぎ合わせるとぼんやりとした輪郭が見えているのが正直なところだった。
臣の奇行になにが真意だとしても、根幹にあるものが〝同じ〟なのではないかと予測がつきはじめたのだ。それは、『離れた』からなのか、『離れてしまったから』からか『離れても』なのか。
きっと、離れなければならない程の家族とに問題がある。そしてそれは臣にとっては祖父母、清司にとっての両親でもないだろう。電話口での怒りの矛先は彼等全員であっても臣を引き離さなければならないと決断したとなればきっと、原因は兄弟、それが臣の家族。
自分にとってもそうで、それが違和感なのだと気が付けるまで時間がかかった。この三ヶ月の間一度も自分の家族について話す臣の声を聞いた試しがなかったことに、漸く気が付いたのだ。
清司を介さず臣と過ごす時間は毎日の朝食の時間くらいのもの。その機会がなかったと言えばそうでもあるのかもしれない。けれど、奇行を咎めてばかりの仁成には話し難いとしても、それにしても触れない。不自然な程、清司までもが。清司までもが臣の家族と仁成の家族について、二人の前では話題にあげることがなかったのだ。
もしも臣と仁成の持つ家族という理由が同じであれば距離を縮める題材にでもなったのかもしれない。だが、違う、まるで自分のようにだんまりを決め込んでいる。だからこそ、仁成には臣の問題の根幹がそう思えてならなかった。
真横に臣がいても仁成は聞き出せないでいた。自分のように、まだ話題に出せるだけの心境でなかったとしたらを考えると安易に「こうか?」と聞くわけにもいかない。
聞きださずに、踏み出せる案はないのか。その事前段階として、なにか。
その日も臣は海に入った。全身が濡れて、体から滴る海水を床に落とす臣の横を抜けた仁成を見て清司はいつものようにタオルを持って戻るものとばかり思っていた。
しかし、戻った仁成の手にタオルはない。変わりに、三年前に卒業した高校の制服を持って、現れた。
「……まだ持ってたの?」
それは、臣がこの家に来る数日前には清司が仁成に確認したものだった。「高校の制服はまだ残っているのか」、その問いに、仁成は「捨てた」と答えたはずだった。
仁成は臣に制服を差し出し、臣はそれに戸惑う。受け取る手も用意出来ずにただ仁成を見上げるばかりだった。
「ひとつの制服を二日は着るように。二日経ったら入ってもいい。私服であればいつでもいくらでも入っていい」
「……」
「守れないなら、もう制服は着るな。俺はこれ以上譲歩出来ない」
「……」
「わかったか?」
「……うん」
答える臣の声に覇気はなく、怒られたと思ったのか途端に落とした視線をもう一度上げきることもない。
仁成が差し出す制服を受け取ろうと持ち上げた両手を、清司が自分のエプロンで拭った。仕事用のそれは吸水も良く、臣の手のひらからすぐに水気を取り除く。
「捨てた」と清司に嘘をついてまで臣に渡したくはなかった制服は臣の手のひらに乗せられ、仁成の心を縛り付ける感情を僅かにでも軽くした。理解と、安心と、信頼と。
人知れず、清司は微笑んだ。不格好に歩み寄れた二人の息子と、上の息子の、温かさに。
その日の夜、深夜に花の仕入れに向かう清司はいつものように食後風呂を済ませると早々に自室に籠った。時刻は日も跨がずで臣も仁成もまだ自室やダイニングで思い思いに過ごしている頃だった。
三人の中で最後に風呂を済ませた仁成が洗面所で半分着替え、濡れた髪をバスタオルで拭っていると揺れるバスタオルの向こう、そのほんの僅かな隙間から覗く臣を見つけた。開いたままの洗面所の戸口に、臣が立っている。瞬時に洗面所を使うのかと体を引くも、臣は踏み込みはしなかった。
「なんだよ」
「ううん」
「だから、なにが」
「制服」
「制服?」
「あれもらったらもう迎えにはこないの?」
「は?」
「仁成君の制服もらったら着替えがあるから、もうオレのこと迎えには来なくなるの?」
「いや……別に、どうせやめないだろうし、行くけど……」
納得した様子で臣は頷き、すぐに踵を返して真後ろにある自室の扉を開けて「おやすみ」と仁成の前を去った。
頭に乗るバスタオルで覆われた所為か臣の部屋からはもう物音さえも聞こえない。仁成が洗面所を後にする頃に消した照明で臣の部屋から漏れる光を確認したが、やはりもう、起きている気配も感じ取れなかった。
たったそれだけを確認する為だけに限界まで待っていたとでも言うのだろうか。真意を確認出来ず、仁成は少々寝苦しい夜を過ごすハメとなった。
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