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※  自分の制服を着て家を出た臣を見送って、清司と仁成は店の開店準備に取り掛かっていた。植物の手入れと今日に受け取りがある鉢植えを整え、毎日出る剪定分の花で小さな花束を作り、長年続ける作業に迷いもなく時間もかからない。互いに流れるような動きで進めていざ開店をして二十分後、清司のスマートフォンが鳴った。  よくよく考えれば、この流れの全てが花村家では当然の日常だった。けれど、臣が来てからの四カ月間、この習慣が途切れていたことに気が付いた。スマートフォンの液晶を見る清司の顔、穏やかで、優しさに溢れた清司が唯一その表情を嫌悪に染める瞬間だった。 「任せるね」  そう言って清司が自室に上がる。幾らかして遠く幽かな声が聞こえて、清司の声が怒りに染まる。あんな朗らかな人を怒らせるのは決まっていた。いつも同じ相手、実家の、清司の本当の家族からの連絡に間違いなかった。  臣がこの家に来てから四か月もの間この習慣が途絶えていたことに気づけなかったのは清司が電話に出なかったのか。それともそれどころではなかった自分が常に臣に苛立っていた所為で気が付けないでいたのか。本当に途絶え切っていたとは思えない。それだけ何年も、何年も、清司はあの電話に怒鳴り続けて来たのだから。  階下に届かぬように清司は声音を抑えているような気もした。それとも覚えていないだけだろうか、端々の言葉が聞こえず、言葉でもない確かな清司の声が聞こえるのは少々、堪えた。なにか不穏で、自分の身に関していない自信がないだけ、怖かった。  それから一時間程して二階から降りる足音が聞こえて、特段そうする必要なくとも仁成は身構えた。ダイニングと繋がる戸口を見つめて、そこに清司が現れるのを待った。  幾らもしないで現れた清司の顔は見覚えがある。目が合って、仁成はすぐに「大丈夫」と頷いた。 「ごめんね、行って来る」  謝るべきも謝られるべきもきっと自分達ではない。わかっていても、仁成はなんてこともない返事をして「いってらっしゃい」と清司の背中を見送った。  一人になった店は当然静かで店の中には外の音がはっきりと入り込むようになる。車の音、通りすがる人の足音やその声。聞き慣れた音はそれ以前の生活の音を上書きして、それまでどんな世界の音を聞いていたのか仁成は思い出せなくなっていた。そんなにも長い時間ここにいる、いていい理由をなくした後でも、ずっと。  この家に来る前は、精神衛生上にも目にも体にもよくない世界にいたのをはっきりと覚えている。なにもかもが嫌だった。二桁にもならない子供にはわけがわからずとも、わかる分だけ、全て。  あの頃の音は思い出せなくなった。けれどこうもはっきりと覚えていて、いつか音と同じように思い出せないような自分に変化するのだろうか。父の顔も、声すらも思い出せなくなる時が。  途端、我に返った。ダイニングと店の繋がる壁に備え付けられた電話が鳴ったのだ。店用兼自宅用、清司が件の外出はしていてもそちらの電話機が鳴ることはない。仁成は安心して電話に出た、けれど電話口で聞いた一言目で、心配事が増えてしまった。  電話口の女性は「あら、久しぶり」と笑う。三年前まで、仁成を教えていた教師の一人だった。 『臣君、来てないのよ。遅刻もあるだろうから少し待ってみてたんだけど、やっぱり来なくてね。だから確認の電話なんだけど、臣君は今日、休み?』  仁成の肺から重いため息が溢れ出したのは懐かしい人物との電話を終えた後だった。随分と重なる、きっと今日は厄日なのだろう。  自宅の戸締りを確認してスマートフォンと財布、車の鍵と店の鍵を持ってA面ボードと扉の看板をcloseに戻して鍵を閉め、いつも通り配達用の車に乗り込んだ。行く先は決まっている、迎えに行かなければならない。  道中、臣への心配はそれ程大きくはなかった。こんな日はこれまでにもあった、けれど心配で不安でならない清司のことも、これまでに幾らでもあった。仁成の脳内は忙しなく、その割には鮮明な原因が姿を現さないまま海までの道のりを運転し続けた。それが出来なくなった時には一度停めよう、ほんの少しだけ弱気にもなったが無事、海にはたどり着いた。  遠目で見ても制服の黒い塊が砂浜に座り込んでいるのがはっきりと見えた。そういえば、登校の途中で海に行ってしまったのはいつ振りだろう。ふと仁成の脳を掠めたその言葉で、それまでの今回と同じ“この状況”が思い起こされてしまった。  臣が登校の足で海に行ってしまった日は、必ず。  砂浜沿いの道に車を停めて、座り込む臣の背中へと歩んだ。黒い塊でもなく、髪と制服がはっきりと境界を持って見える頃に、呼んだ。 「臣」  「またか」でも「帰るぞ」でもない。真っ先に名を呼んだのは、その予想があったからだった。  振り向いた臣は泣いていた。弟になったあの初日にもそうだったように。  はら、はらと尚も涙は落ちた。今まさに、泣き続けている。  続ける言葉は慣れていても、この瞬間仁成の喉から出る前、何度も躊躇した。 「帰るぞ」  何度も、喉を出ては引き返した言葉を漸く形に出来たが臣は動かない。いつものように生温い返事をして立ち上がることもない。  はら、はらと落ちる。仁成は観念して、臣を立ち上がらせようと近寄った。と、同時に様子がおかしいことにも気が付いた。  学校のカバンは砂浜に置いてある。本人は全身が濡れた状態で波に打たれ座り込んでいる。その、すぐ側にスマートフォンだけが海水に浸っていた。これまでどれだけ本人が海に入り続けても、制服以外のなにも濡れさせずにいたのが、スマートフォンだけを海水に落としていた。  仁成の中の輪郭を持たない〝悪いもの〟がざわめいた。  実家からの電話、実家へ行った清司、四か月振りのこの習慣、その中、その問題の中心にいると踏んだ臣が海に入りスマートフォンだけを水没させた。繋がらないわけが、ないと思った。  不安になったのはその根源に向かった清司を案じてだけではなかった。これまではずっとそれだけだった仁成の頭には、目の前で泣く臣の涙に不安が募った。なにがあった、なにが起きて、こうなった。  花村、怒る清司が向かうのは実家、清司には弟がいる、家族は両親と弟だけ、自分と清司に親子程の歳の差があって臣が清司の弟のはずもない。店は両親のものだったが清司がそれを継いだ、両親と弟はこの土地を離れている。これまでの電話口で怒る清司の言葉の端々が繋がっていく。きっとそれが、臣の父なのではないか。清司がものの六日で引き取れるだけ身近な存在が臣の父親で、それがつまり、清司の弟なのではないか。  なにかがあった。花村の実家に繋がらない自分だけに〝電話〟という共通点がないのも、その証拠だった。  仁成の喉にはつっかえる言葉の一つもなかった。泣く弟に言える言葉が見当たらなかった。臣の涙は未だ落ち、濡れた頬を伝っては消え、また滲んで落ちた。  もしかしたら、清司も自分に対してこんな気持ちであった頃があったのだろうか。そう思えると、仁成は一歩を踏み出せた。  海水に浸ったスマートフォンを拾い上げ、靴は濡れてしまったがその後波が当たらない場所で佇んだ。臣の左後ろ、きっと、丁度臣が堤防になって波が届かない。 「好きにしろよ」  そう言って、仁成も砂浜に腰を下ろした。こんな風に座り込んだのは、まだ父がいて、全員の仲が良かった頃以来のことだった。 「店は閉めたし、清司君も用事でいないから、好きなだけやれよ」  「待つから」と続けた呟きは果たして、臣に聞こえていただろうか。  暫くして臣の視線は仁成から外れ、海に戻った。なんだか既視感があるのは初日での所為かもしれない。  まるで海に帰れないことを嘆くかのような姿だった。ここではない場所を思って泣くような。  午前中に来た海は明るく、いつもは夕暮ればかりで見ていた海も白んでどこか重たい色をしていた。  真っ白な空に、幾らか濃淡をつけた鳥が飛ぶ。白から色をなくして透明な上澄みだけが押し寄せる波は絶え間なく、耳には常に波の音だけが満ちていた。  身動きもせず、声を発することもなく臣の背中はただ海へと向かっていた。  もう一度泣き顔を見る自信がない。どうか出来れば、振り返る顔に涙は落ちていないで欲しかった。  正確な時間は定かではなく、それでもきっと数時間、臣は海で過ごした。  帰らなければ、と我に返ったのは臣ではなく、仁成の視界が雪を捉えたからだった。臣の制服に白いものが落ちて、消える。最初は波がたてた泡かと判断したが仁成の膝にもそれらは落ちていた。  見上げると白かった空も眩しく澄んだ雪雲に変わり、向かって落ちて来る雪の数も思ったよりも多かった。 「臣、雪降って来た」  立ち上がると雪の粒が急激に多くなったような気がした。これは少し積もりそうだ、そう判断して、仁成は波を踏んで臣の傍らに佇んだ。臣はまだ海だけを見ている。 「これ以上は駄目だ。また、明日来よう」  引き上げる臣の左腕には全身分の重みがあって一筋縄では浮き上がらない。仕方なく、海と臣の間に隔たって、脇に手を差し込んで起き上がらせた。濡れている所為で見た目よりずっと重い。完全に立ち上がらせた時には反動で互いによろけて激しく波が散った。 「帰るぞ」  臣が自力で立っている重みを確認して踵を返し、停めてある車まで数歩、進んでから違和感に気づく。いつもなら波の間にまに自分に続く足音が聞こえない。砂を踏む独特の音がついて来なかった。  振り返ると臣はあのままの場所で立ちすくみ、動かない。もう泣いてはいないがぼんやりとした顔で、久し振りに立った所為か僅かに体が揺れるだけで歩く意思が見えなかった。 「臣」  もう一度促しても、臣は動かなかった。  進んだ分を戻って、仁成は地面に放置されたままの臣のカバンを持ち上げた。そうして臣の目の前に立っても、やはり変化はない。  もう一度先に進めば後に続くであろうか、そうして二歩進んで、三歩目にはまた臣に振り向いた。意を決して。 「行くぞ」  この状況でまで咎め、責められるだけの感情も今やない。仁成はなにも見ないまま、聞かないまま臣の手を握った。カバンを持たない左手で、臣の右手を握った。  進み始めた仁成の歩を止めるような重みはない。手のひらに感じる体温はまるでなく、少なからず冷えた自分の体の所為だけとも思えなかった。臣の体からは体温を感じない、握っている感触があるだけ奇妙なものだった。  人一人分引いて歩く腕はそう重くもなく、車までの距離が長く感じたのは浮かばない言葉を幾つも考え続けていたからなのかもしれない。
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