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※  自宅に戻っても清司はいなかった。配達用ではない自家用車が駐車場にはなく店も開いていない。きっと、久しぶりに起きたのだから長引くのだろう。濡れた臣を引き連れていつものように店から入ったが、店の看板はcloseのままにしておいた。今日はこのまま、閉じていた方が良いのかもしれない。 「脱いだら風呂行けよ。俺も濡れてるから、先に行って給湯器つけとく」  何度も波を踏んで、最後には完全に水没してしまった。脱いだ靴も靴下も、ズボンも膝から下が濡れて冷たい。靴は段差に立てかけて、靴下は側にあった生花用のバケツに放り込んだ。後で臣の制服と一緒に、どうにか水を切ろう。  制服を脱ぐ臣を置いてダイニングに一歩踏み出しただけで濡れた足で床を踏む不快感が堪らなかった。けれど臣をすぐに風呂に入れねばならない。海から自宅までが遠いわけでもなく、道中で車内の暖房も暖まりきらなかった。臣の膝が小刻みに震えていたのは、暖房で温まった体が漸く冷たさに気が付けたからなのかもしれない。  真っすぐ、自分の処理は後回しに浴室の準備をして給湯器のスイッチを押した。それから自室に戻って脱いだ上着をかけ、替えのスウェットを持って洗面所で着替え終わった頃に臣が現れた。黒い髪が海苔のように張り付いたまま、流石に水が滴っているわけではないが何度見ても理解に苦しむ。 「まじで、なんでどうやって頭まで入れるんだよ。冬だぞ」  給湯器はまだお湯はりの運転を始めない。まず、とりあえずはと仁成がバスタオルを臣の頭に掛けようと翳すと、なにを思ったのか、それを潜った臣が正面に現れた。丁度、バスタオルが臣を包み、丁度、仁成の腕が臣を囲うように。  はっとしたのは仁成だけだったのかもしれない。臣は、わざとバスタオルを潜ったのかもしれない。触れ合った唇はけしてどちらかの一方的ではなかったからだった。  バスタオルはもう仁成の手に残ってはいない。濡れた臣の体に張り付いて、なんとか落ちるのを留めていたのを丸ごと腕におさめて、寄せた。布越しの体に押し当てられる体は体温を感じないのに心臓は体内に響く程脈打っているのがわかった。  肉のない体の骨があちこちに当たる、冷えた臣の手が仁成の首に触れる、それよりは幾らか温みの残る仁成の手が臣の頬を、首を、うなじを触る。  もう、殆ど最初から舌が触れ合っていた。まるでその瞬間タガが外れたように躊躇うこともなく、想像よりもずっと冷たい舌が触れ合った。両手の平は熱い。冷え切った臣の体温ではなく、自分自身の昂ぶりによって。  給湯器がお湯はりの音を鳴らす瞬間までそれは続いた。互いに、一時も戸惑うことなく。  高らかに給湯器が音を鳴らすとまるでそれが合図のように仁成の頭が我に返った。眼球の奥で急に視界が色を持って鮮明になったような感覚だった。  急に離れてしまうとまだ微睡んだような臣が目の前にいて、考える間もなく仁成はそれが醒めきる前に手を引き、「店」とだけ言い放ってその場を後にした。  走り出す一歩手前の速度で廊下とダイニングを進むと所々自分達が濡らした道に当たって足を取られる。店に下りる足は清司のサンダルをつっかけたが、焦った仁成の足からはすぐに抜けかけレジに辿り着いた時には右足が殆ど収まっていなかった。  眼球がくらくらとして、立っていられなかった。その場にしゃがみ込み、全身を塞ぐように縮こまっても気が済まない。股に挟んだ頭が熱い、抑え込むように項へ伸ばした両手の爪が自分の皮膚を掻いた。その内、臣へも同じことをしたのを思い出して開いていた手のひらを閉じた。握りしめ。残った名残を払おうと必死だった。  給湯器の動く音がする。壁一枚隔てて臣が風呂に入っている。あの冷たい肌が漸く温まる。  拒まれた感覚はないが、止まらなかった自覚はある。弟になった初日に見た泣き顔に惹かれたなんて趣味が悪い。今日、もう一度見て、もう一度惹かれたのも。  その日、清司は遂に戻らなかった。「遅くなるか帰れない」とメッセージ入ったのは夕食前、その時間に詫びを入れるのがなんとも清司らしいと思った。今日に限っては、どうして今日に限ってと思わずにはいられなかったが。  臣と二人きりの夕食は二十時に始まった。結局、店はあの後開かずにはいたがいつもよりも遅い。今日に限っては、どうしようもない。  まともに調理出来る気もしなかった。備蓄で買い置いていたレトルトカレーを温めるだけが精一杯で限界だった。  こんな日に二人きりで囲む食卓はあまりにも静かで、清司がいても滅多に使用されないテレビをわざわざつけるのも気が引けた。結局無音で、無言の夕食時間が際立つ。取り繕う言葉など浮かびもしなかった。  時折、様子を窺って上がる視線の先で同じだけ黙りこくった臣が黙々と食事を続けていた。それにしては減らない。きっと、互いに。清司が戻る前に、どうにか空気を戻したかった。なかったことには出来なくとも、まだ、清司に知られてしまうのも。 「明日はちゃんと学校行けよ」  当たり障りのない、いつも通りの言葉を選んだつもりだった。 「うん」  臣もまた、いつも通り飾りのない生返事をした。会話は、続かない。 「クリスマスだね、仁成君」 「来月だろ」 「うん」  後一か月と少し先、三人になって初めてのその日を過ごす。仁成の頭はそれ以外の意図を探って忙しなく動いた。これだけはっきりとした食べ物の味のひとつも感じやしない。サンタより、今すぐにでも清司の帰宅の知らせが欲しくて堪らなかった。
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