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そのひとは、雪の降り積もる小さな街に住んでいる。雪に埋め尽くされたこの街と同じく、降り注ぐ何かにピアニストの自分を埋め尽くされたひとが住んでいる。冬が終われば雪で埋め尽くされた街は帰ってくるが、ピアニストの彼女は帰ってこない。蓮見は歩みを止めて振り返った。
(確かに悪くない景色だな)
かつてそのひとは雪景色が好きと言ったが、蓮見は雪景色が嫌いだった。どんなつまらない景色も雪さえ積もればそれなりに見えてしまう。その偽善さが嫌だった。
だが、蓮見は意見を変えた。雪景色も悪くない。偽善だろうがなんだろうが美しければそれでいい。そのひとのピアノがそうだったように。神田は彼女のピアノを変わらず美しいと評したが、蓮見の意見は違う。彼女には言わなかったが、動画で聞いたピアノは彼女のピアノスト時代のそれよりずっと美しかった。皮肉なことに降り積もった色々な物はピアノストのそのひとを埋もれさせ、彼女のピアノを一層輝かせた。降り積もった雪が平凡な街を輝かせたように。理由はわからない。だが、理由などどうでもよかった。
ピアニストとしての彼女を埋もれさせた彼女の美貌と富を憎んでいるのも事実だ。同時に今の彼女のピアノを心から愛しているのも事実だった。だが、そのピアノは最早、聞けるかもわからない幻のピアノだ。蓮見は再び歩き出した。蓮見が新たに愛したそのひとの旋律が胸に広がった。
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