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そのひとは雪のちらつく海辺の町に暮らしていた。地元の音楽教室のピアノ先生として生徒や保護者に接する他は町との交流はないらしい。
教室を訪ね、そのひとの名前を出すとすぐにピアノの教室に通された。そのひとはピアノを弾いていた。懐かしさでめまいがした。変わらない。彼女の旋律は変わっていない。 胸をかきむしられるような 切ない旋律。
「先生」
声をかけられ、そのひとは手を止めた。
「ごきげんよう。お久しぶりね。神田さん」
立ち上がって微笑む。僕のことを覚えていてくれたらしい。
「ご無沙汰しております」
「寒かったでしょう。お掛けになって」
彼女はピアノの椅子を勧めた。彼女は僕が座るのを見届けると指導用の小さな椅子に腰かけた。
「ごめんなさいね。ちゃんとした椅子じゃなくて」
「いえ」
「まだ次のレッスンまで時間があるの。珈琲お飲みにならない? インスタントだけどちょっといい珈琲なのよ」
「いえ、結構です。僕、あの」
「そう」
彼女はあっさり引き下がった。微笑みはそのままに真っすぐ僕を見た。
「何の御用かしら」
僕はその大きな瞳から目をそらさないよう必死になりながら口を開いた。
「蓮見さんが定期演奏会にあなたを」
「蓮見さん、お元気? しばらくお顔を見ていないけれど」
僕は唖然とした。蓮見林太郎は今や知らない人間はいないほどの有名な作曲家・指揮者である。エンタメニュースで月に一度は顔を出す。普通にメディアに接していれば顔ぐらい嫌でも目に入るはずだ。ましてや彼女は――
「ええ、とても」
僕はなんとかそう答えた。
「そう」
彼女は立ち上がった。
「ごめんなさい。お水を一杯飲みたいの。いいかしら」
「どうぞ」
彼女はにっこり笑って教室を出て、戻らなかった。
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