ネフライト

7/9
22人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ
※  咄嗟に扉を閉められなかったのも自分だけが廊下に出ることも気が回らなかったのは、ロクに顔も見たことがない自分の生活時間の違いの所為だったのだろう。酷い酒のにおいがしても、それがすぐに直結しなかった。壁越しには聞いていた声も直接に聞く声とは随分と違う。それが怒鳴り声でもなかったこともあるだろう。  一致した時には息を飲んでしまい、脳が直接動悸を打ったように視界が膨らんだ。やっと反応した体が扉を閉めようと動いたが、片手に持っていたスマートフォンが邪魔をして力が入りきらなかった。  扉を閉めようとする自分に、扉を開けようとする隣人、スマートフォンが手のひらから落ちて三和土で無機質に鳴った。  扉を突破した隣人が叫ぶ。背後では行き場を失った少年が慌てふためき、窓に縋りついた。少年との間に挟まっていた小さなテーブルを隣人は蹴り上げて、乗せていた食料も飲み物も壁と少年へ向かって飛んでいった。  テーブルは的を外れて壁に当たり、床に転がった。そこで漸く、自分の体も正しく動いた。 「あんた……警察呼ぶぞ!」 「呼んでみろよ、親が子供迎えに来てなにが問題だってんだよ。なあ、誘拐犯。お前、ひとんちの子供連れ去って、なにしてたんだよ? 未成年を、なあ」 「虐待から保護してたんだろうが、お前みたいな、お前みたいな奴のせいで」 「なあ、(りつ)お前、職場だけじゃなくてこっちでも売ってんのか。うちに入ってた金、お前の売り上げってことか」  掴み合う隣人の顔の横から背後の少年の姿が見えた。声もあげられずに怯え、恐怖に染まりきった表情に見てわかる程はっきりと体が震えていた。 「どうせ忘れるんだあいつ。他に使い道もねえ。でもな、金はいいったって、俺の気が晴れねえ」 「忘れるわけねぇだろうが! あんた、自分の子供になにしてっかわかってんのか!!」  ほんの一瞬、怒りが頂点に上った。声が震えて出た程、気づけば隣人を思い切り突き飛ばし、よろけた隣人は少年の横で窓に当たった。 「おい、帰んぞ、(りつ)、さっさとしろ、仕事行け」  腕を掴んで捕られた少年は抵抗して後退る。それが気に障って、隣人は少年の髪を掴んで捕らえ、頭を叩き、首を掴んで揺さぶった。 「仕事、行けよ。ちゃんと働いて、給料、貰って来い」  眼前で強く言う隣人の言葉が親の口から吐き出されるものとは思いたくもなかった。  苦し気にしていた少年の顔が向ける限り、こちらを見た。これで四度目、少年がその目で自分を見たのは四度目のことだった。  皆、どんな大人だって無視するんだ。君の為という教師も、テレビの向こうの説教も、皆。  踏み出し、隣人の肩を掴んで少年から力任せに引き剥がした。間に入った体が少年を遠ざける。背後でよろめく少年が転んだ音がした。  壁越しに何度も聞いたあの怒声をあげる隣人を先に殴った。よろめいた所を床に転がっていた小さなテーブルで力いっぱいに殴りつけ、三度殴ると隣人は床で蹲り、動く気配がなくなったのを見てテーブルを手放した。 「行け」  きっと隣人はすぐに起き上がる。酔いの所為でまともに痛みを感じないはず。少年の肩を押し、玄関へと指さし、つい先ほど下ろした金が全て入ったカバンから自分の財布だけを取り出して少年に押し付けた。  もう既に泣きはらしている少年の目が縋るように見上げる。その体を玄関まで押しやって、もう一度「行け」と言った。 「行け、いいから」 「どこに……」 「こんなの我慢出来てたんだから他のことなんてそうでもない。行け、早く、追わせないから」  玄関の外へと、少年の体を追いやった。未だ少年は縋る目を向け、震えていた。 「ここから先は本当に頑張れ、わかるな?」 「でも」 「行けって!」  背後で蠢く隣人が立ち上がる気配に焦り、強く叫ぶと少年は縋らせた目で振り切れないまま走り出した。  階段を降りて行く音がする、隣人が立ち上がり、食べ掛けの食料を踏み潰した音、いつも少年へ向けていた怒声が真正面からぶつかる。  まともに更生してきたつもりで、最後に人を殴ったのも六年以上昔。その割には殴り方も覚えているし、殴る感覚も知っていた。  思っていた以上に骨は固いし、痛い。  あの日少年の背に見えた背骨の形や隆起が焼き付いていて、あんなにも頼りないものがこの衝撃から少年を支えていたのかと思うと、やるせなさで殴る気が失せていった。  酒でずっと酔っ払ったままの隣人は痛みを感じる部分まで鈍感で、何度突き飛ばしても、殴っても、同じだけこちらに向かって来る。  こんなものを毎日耐えていたのか、意図せず涙が出て、いつの間にか出ていた鼻血も混じって嫌な味がした。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!