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願いを叶えられる土台が整ったのは一年と三ヶ月が経つ頃だった。今から七ヶ月前、こちらの要望も飲んでお互いの土台が整った後だった。
戻った雛をまずは人並み程度の環境に持ち上げるのが自分自身に科した責任だった。雛は事業を手伝い、就職という位置も含んでこの家に留まった。同じ屋根の下、ビニールハウスの屋根でもなく。
行ったきり戻らないわけでもなかったことから幾らかは良い大人たちに身辺を整えてもらえたのだろう。だが、それは今のこと。雛が奪われ続けた十七年間というわけでもなかった。
楽園に打ち上げるなんてこともおこがましく、まずはなんの不安もない世界に置いてやりたかった。自分自身に出来ていると自信が持てるだけ、存分に。
戻った雛は幾らかして、初めての願いを口にした。そんなことが出来るだけ安心もしたのだろうと喜んだものだが、いざ内容を聞いてからというもの、こちらが持つ不安は日に日に増していくばかりとなった。
『ようくんを探すの、手伝って』
それは雛がビニールハウスの中に大事に隠し続けていたバッグの相手、救ってくれた相手の名だった。
雛が望むことならと、最初の内はそれほどの気がかりもなく人探しを始めたがひとつ探る度、ひとつわかる度にこれ以上続けたくはないと頭を抱えるようになってしまった。雛が生きていた世界があまりにも残酷だった、そんなものはこの世界にはないものとしたいだけ、信じ難かった。
何故雛が自分なんかを特殊だと言いこの家を楽園だと言ったのかもはっきりと理解した。知りたくないとは思わなかったと言うと嘘になる、なにも知らないままでいれば快く雛を再会の場へと送り出すことも出来たはずだからだ。
雛の元居た家の住所、その隣人、大家に尋ねると名前がまず手に入った。佐藤耀、雛がよう君と呼ぶ人物が浮かび上がり後は当時の職場から辿って移り住んだ土地すらもすぐにわかった。雛が願いを口にしてものの二ヶ月、そこまでわかって手を止めた。はっきりと、今は君を手放してやりたくないと。
『律の願いはどんなものでも叶えると決めたけど、耀君を探す手はずの中でこれまでのことを知って今すぐに律をその世界に送り出すのは、俺には無理だった。でも、叶えるから、もう少しだけ律を幸せにする時間を俺にくれないかな』
『なんで?』と言う。それはどうして今すぐに叶えてくれないのかという不満でもなく、何故自分を幸せにしたいのかという疑問だった。そうされることなく過ごした身には理解するまでの時間も多く要した。どうしてなのか納得しきるまで二週間がかかり、互いの譲歩で決めた期間はそこから一年、一年間は元の世界と触れ合わない。一年間雛が願いを叶え、一年経過した後にはこちらが願いを叶える。そうして過ごした一年間だったが、そこからが問題だった。
佐藤耀の捜索を開始して、どうにもその名に当たらない。急激に調べるのが困難になって数か月、仕事の合間を縫ってやっとわかったことは偽名、そもそもそんな人物は存在していなかった。本当の名が判明してからはまた、早かった。佐藤耀は高良耀という名で移り住んだ土地で暮らしている。
どちらが偽名かもわからないが、ここでも多少の不安は過った。偽名を通さねばならないような生き方をしている人間なのか、そもそもあんな大金を見ず知らずの子供に与えるような人間を信用出来るのか。その金すら良いものか悪いものか、なにで出来たものかもわからない。またも頭を抱えるようになって数か月、決意と諦めと手はずを整えて、やり切った。
雛が来てから二回目の夏、高良耀の住む土地へと向かう手配を済ませた。後は向かうだけ、向かって、顔を合わせて、その後はどうにかなる。だが、一度目は台風で流れた。気を取り直して二回目も同じく台風で流れてしまった。三度目、時期が悪かったか意気込みはまたも台風で掻き消えてしまいそうになったが、もう自棄だった。知らぬと強行し、台風の前日に乗り込み当日をホテルでやり過ごした。明けて台風一過、朝から高良耀の働く店へと足を運ぶ、勢いが一瞬でも萎えてしまわないうちに。
過ぎた台風は頑丈なホテルの中で感じていたよりも酷い爪痕を残していったようだった。風よりも雨が酷かった、至る所で浸水してしまった店が店頭で後始末に追われていた。
足元の深い水たまりとは反対に、台風一過の空は真夏日を取り戻したかのように燦燦と陽を降り注がせていた。シャツが張り付く、雛だけが元気に歩き続けて目的地まで止まることもなかった。
意気込みが過ぎたか、最初に店を前にした時は開いてもおらず人気がない。幾らか時間を潰そう、そうして三十分後にもう一度向かった時には既に路上に店の中身が運び出されていて、店員らしき男が忙しそうに出入りを繰り返していた。二度目は気が引けてしまって、忙しなさが落ち着いた頃合いを見ようとまた時間を潰しに戻った。
けれど台風の爪痕は想像以上に酷い。その後二度も店の前を通ったが、店員は変わらず忙しない。開ききった戸口からは水と泥で汚れた床も見える。これは、もう一日をホテルで過ごすべきかもしれないと話し合った。
結果、最後の悪あがき。きっと昼には食事休憩を挟むはず、そこを狙って、それでも駄目そうならば大人しくホテルに戻ってもう一日過ごそうと決めた。ここまで店の惨状を見続けた雛も流石に納得し最後の一回は入念に、その姿を捜し歩いた。
昼になって陽の強さは増し陽炎すら見える。濡れ切ったコンクリートが乾く合間の水蒸気があちこちで雛の行く手を阻むように昇っていた。
恐らく、雛の期待に反して自分の頭は随分と冷えていた。強い日差しに当てられ続けた所為でもない。どうせいない、いないでいてくれた方が、いい。
先を急ぐ雛の後ろ、ぐんぐんと離れていく背中が虚しく、腹立たしくも思えていた。
「耀君!」
急に上がった声に漏れたのは安堵でも遂にという疲労でもない。いなければよかったのにと全身を巡った黒いものが喉から溢れた音だった。
視線を上げると雛は走り、飛びついていた後だった。
雛よりは頭一つ分は大きい、雛とは正反対に真っ黒な髪、雛よりは太いが骨ばって痩せた男、あれが耀か、あれが雛を救い、今奪っていくのか。
雛は目映いばかりに笑む。想像に反した表情を浮かべた耀は、再会にだけでもなく泣きだしてしまいそうに笑んでいた。
「そら、巣立つだろ」
外の気温に合わせているのか、効きすぎた冷房で二の腕の皮膚が痛いだけ涼しい。選べるだけの気力も残らず、目についた飲食店に入って適当にと頼んだお陰で目の前に置かれた商品はアイスコーヒーだった。
体の表面も、体内からも冷やされる。言葉に出さずの頭を冷やせだということも、もう長年の付き合いでよく知っている。
「雛なんだろ、巣立つだろ、じゃあ」
「そういう意味じゃないだろう」
「どういう意味の雛なんだよ、お前の手にいるからか?」
「大事にするべきという意味でだよ」
「大事なら雛の大事も大事にしてやれよ」
「しただろ、だから」
一人で巣立ちを受け入れる自信もなかった。その所為でというわけでもなく、この二年間はいなくなった分を埋めるように家の中に人が増えていた。いなくなった祖父母の後に律と、一度はいなくなった人間までもが戻った。まさか嫉妬や欲とは思いもしていないが。
律の状況を知った上で放っておくことも出来なかったのだろう。その知識もなく庇護精神だけの自分より確かな知識を持つ身内がいるのだ、必要になるだろうとも、道を外すかもしれない元恋人を見ていられなかったこともあるのだろう。なくなった段ボールごと家に戻った。空いた部屋をまた、埋めて。
この二年、はからずとも支えられてしまった。耀を探す手も、事業も律のことさえも。あれだけ酷かった過呼吸も戻ってからはたったの三度、何度か苦しがることはあっても症状が出てしまったのは三度だけに留まった。適切な処置も、目が行き届いていたのが幸いしていた。
それこそ頭を冷やす為にも確かな手助けがあった。律に対しての手厚いものとは違って軽口でのものだったが、それが恐らく、丁度良かった。あれだけ去って憎かったものが、気が付けば去る前の不満と苛つきに戻っていた程に。
自分以外の人間に警戒し、時に発作の原因ともなっていた第三者のはずが何故か、律は元恋人に対してはそれらが発揮されないでいた。それどころかまるで自分と変わらないだけ自然と接し、名前すらもすぐに覚え呼び始めた。
当然のように今もここまでついて来て、だから、少なからず、自分程とはいかずとも律への思い入れはあるはず。肩入れかもしれない。
どうしてこうも平気でいられるのだろう。こちとら不安でしかない、また律が元の世界に連れ戻されてしまうのではないかと。
「お前が支えるんだろ?」
「そうだよ」
「産んだ覚えもないけど、保護者なんだろ?」
「保護、庇護……」
「見た感じそんな悪い男でもなさそうだし、律だってもう自分がいた世界がダメなものだって理解してる。お前がしっかり見てるんなら、大丈夫なんじゃねえか」
「そうはならないかもしれない」
「お前はいつでも正しいんだよ、感情の面では」
そう、いつも正しかった。この現実を見るその目だけは。
「それより、前とは随分印象が違ったな、あの人は」
「ああ、それは思った」
「じゃあ、あっちもそれなりに真剣だったんだよ、やっぱり」
高良耀の名がわかったその日だった、あちら側の〝保護者〟が現れたのは。
客として現れたその人物は店に置く植物を探しているのだと言い、暫くして身を明かした。こちらが彼も含め、高良耀の身辺を調べていることが耳に入ったのだろうと察したが、違う。あちらはあちらで、見兼ねた状況にここまで足を運んでいたのだ。
『もうずっと落ち込み続けてるのがどうにもならなくてね』と言う。高良耀は律を解き放ち、新しい土地に移り住んでも尚律の安否で落ち込み続けているのだと。そしてそれがきっと心配や不安だけでもないのだろうとも。
元々心身ともに健康なタイプでもない。生まれも育ちも、環境にも恵まれて来なかった。今が恵まれているというわけでもないだろうが、元に戻るよりはずっとマシであると信じている。だから、ここに来たのだと。
『まるでその子が幸せでない限り自分が笑ってもいてはならないみたいな顔をしてるんですよね。確かに大人としても手を貸したという意味でも責任はある。でも、そんなわけはないと私自身が思うので。あれ自身が苦労して這い出した場所に返すわけにはいかないし、そんなわけはないと育てて来た自信もあるので』
あちらもこちらも、本人達とは違った意味での決意が必要だった。数か月かかり、この日をこぎつけた。
その日帰り際に本当に植物も購入して去り、後日彼が選んだ植物を店へと運搬して場所も確認した。台風で二度流れ、三度目は強行すると連絡も入れ、漸くとなった。
店先で枯れることなく艶良く育った植物も見えた。それも含めて、あちらの保護者とその気持ちも、どんな環境であるのかも、真剣であるのかも、もうよくわかった。
「……あっちはあっちで、あの男を守ってるんだろうな」
「ならお前がそんな風にしなくてもいいってわかるだろ」
「いなくなるかもしれない不安をお前がどうこう言ってはならないと思うけどね」
「しつこいぞ、夏野、俺は戻っただろ」
「どの口がって出戻り方でね」
「お前に必要だった時間と俺に必要だった時間が違っただけだ。愛があるなら、それ位許してくれてもいいもんだろ」
二重に痛く、重い。
効きすぎの冷房は十分に頭を冷やしてくれたのかもしれない。まるで溶けやしない氷をいくつも浮かべたままのアイスコーヒーも飲んだ分を薄めることなく留まったままでいる。失いはしないのかもしれない。自分次第なのかもしれない。
「……あいつはいい奴かな」
「いい奴だろ。後はお前次第だよ、夏野」
「お前もいい奴だよ、夏輝」
「それもお前次第だよ」
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