オパール

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「お前、そんな声だったんだな」  声を出さずに呼吸すら殺した四日間だった。身動きひとつにも身を縮こませて一人しかいないように振る舞う。会話はスマートフォンで文字を打ち込むだけで、四日間の間に聞いた声は最終日、別れる直前の悲鳴くらいのものだった。  それでも脳に張り付いたままでいた声とも随分と違う。あんな場所で毎日悲鳴を上げ続けていたとは思えない程丸く、温い声と喋り方をしていた。きっと、あの二人が律をここまで穏やかにしてくれたに違いない。  突然現れた律の背後には心配と不安で染まりきった男と、その男を気にかける様子の男が二人、最初に目を向けた時にはサラリーマンだと見受けた彼等が佇んでいた。  喜び勇ぶ律に反して、なんとも言えない顔をしていた。誰だかわからないが、その目を見て察するものがある。ああ、あの後きっと律が行き付いた場所なのだろう。それは、そんな顔もしてしまうだろうと。きっと知ったであろうあの世界の話で、こんな場所には足を運びたがらなかっただろうと。  状況を飲めなかったのは自分だけだったのか、それともわけがわからなくなっている内にもう説明し終わっていたのかもしれない。なにせ二人の男を確認した以外の記憶がよくわからないことになっている。ママとパートナーがその時なにをしていたのかも思い出せない。ただただひと時もこの体を離さず飛び跳ね始めそうな程喜ぶ律だけが記憶に残っていた。  律の的を得ない飛び飛びの説明と保護者らしき二人の男の説明から随分と探されていたことを知った。彼等の名前も職業も、今律がどんな環境にいるのかも。悪の根源のような隣人が死んで、完全に解き放たれたことも。  まるで憑き物が取れたように笑うのも、きっとそれが理由だろう。あの家を離れ土地を離れ、縛り付ける悪意もなければ考え込む必要も理由もない。だがあまりにも急で、全てと包み隠さず話してくれたはずだがどうにも殆どがぼんやりとしたまま記録されてしまって未だによくわからないでいる。  「休みでいいわよ、今日は。店も開かないわ、こんなんじゃ」そう言ってママは追い出すように手を払った。しかしこんな状況ではどこに行くわけにもならない。頭はこんがらがったまま、台風は爪痕を残して街は荒れ放題で観光に連れまわすわけにもいかなかった。  律自身もこの状況に求めるようなものを持ち得るわけもなく、互いに慣れ親しんだコンビニに寄ってあの四日間のように家に籠る以外には頭も周りやしなかった。言われるがまま店を後にしたが見えなくなった頃にはあの二人の男達と話し合ったことだろう。ママのこと、飲み込むのは早く理解するのも早い。その上情の厚い人なのだ、きっとどういうことかと問い詰めでもしたのではないか。もしもそうなら、少しばかりあの男二人に同情もする。  夏輝と夏野と言ったか。律の話で補えば明るい髪の夏野の方が律を救い、暗い髪の夏輝の方が困ったことを助けたのだという。その、困ったことがなんであるのかは未だ、伝えられていないのだが。いや、伝えさせなかったのが正しいのかもしれない。  あんなに眩しく喜ばれて、二年もの間探され続けていたと知ってやめとけと言われたとしても当たらないわけにもいかない。同じだけ、ずっと頭の中を占めていて二年もの間ずっと後悔と名残に痛み続けたのだ。冗談めいても「そうか」と確認をして、「そう」と言われたらもう、止めようもない。  置いていって身に染みていたもやつきも、本当に助かったのかと不安を思うばかりのものでもなかった。目の前にして湧き出たものがなによりの答えで。  襟ぐりから覗いていた脂肪のない背中に浮かんでいた背骨は未だ健在で、なによりも頼りない首も変わりはなかった。それでも腕に納めると丸みがあるように思えたのは記憶の改竄か、良いように考えすぎているのだろうか。  幾らか背が伸びた気もする、それもあんな暗闇や動かぬように過ごした四日間では確かでもない。  貪ってしまったような罪悪感も少なからずあった。「そう」と言われて間もなく唇を合わせた途端どうにもならなくなって、感情が零れ落ちるのを互いの舌で押し込むような気分だった。  「あいたかった」と離れた隙間で呼ばれる名に心地よさを感じるのは触れる肌の滑らかさに酔ってのことでもなかった。 「耀君、やせた」 「そうか?」 「ここ。はっきり見えてなかっただけかな」  律の指が首の付け根に触れて下りていく。体を中心で支える骨を辿って、笑った。 「お前に言われるとは思ってなかった」 「でもそんなに変わってなかった」 「大人になったらそうそう変わりもしねえんだよ」 「そうなの?」 「お前は、少し変われたか」 「うん」 「あの人達は、いい人達だな」 「うん。耀君のとこも」 「俺のところ?」 「うん」  受けた説明と合致してぼんやりと察してしまった気がして考えないふりをするには少々遅かった。けれど、口にする必要もなく、きっとここまで予測してのことなのだろう。なにしろ飲み込みも早く理解するのも早く、情に厚い人だから。 「帰るんだよな」 「うん」 「どうするかな」 「考えよう。もう時間はたくさんあるよ」 「いや、それはそうなんだけど」 「なにが?」 「帰って欲しくないだろ、もう」  律が戻る家がどれだけ安全でどれだけ温かくとも。どれだけ大切にされているのだとしても。それは多分、自分自身も。  あの解せない顔をしていた夏野はどう言うだろう。夏輝の方はあの目が答えでどうぞと言うのかもしれない。  こんなところまで来て、会わせた。あんな顔までして、どれだけ大切にされて来たことだろう。悪の根源のような父親ではなくなったはずがよっぽど覚悟がいるような気がしてならなかった。  それも、あれだけのものをやり切ったのならもう、どんなことでもやり切れる。あの日律を送り出した時に、自らが言ったように。  まるで人並みのような人生だ。まるで人並みの悩みも、耳を塞いでも目を塞いでも、こじ開けられるようなことも痛みもない。 「お前が幸せで良かった」  喉に張り付く言葉が漸く飛び出せると同時に再会の混乱に飲まれて出し切れなかった感情で溢れていくようだった。  「なんで泣くの?」と律が笑う。頼りない体に情けなく埋まった頭を大事そうに抱いて。 「約束は守れなかったけど」 「なに?」 「自分のことだけ考えるの」 「俺はずっとお前のことばっか考えてたよ」 「じゃあ、よかった。僕も約束破って」  再び、あんなにも頼りないはずの体が頭を抱いて笑う。どこで覚えたのか、知っていたのか、宥めるように髪を撫でる仕草が余計に心臓を締め付ける思いだった。  「そりゃすきになっちゃうよ」と、思っていたよりもかすんだ声で思っていた通りのふわふわとした口調で言う。もう、あの悲鳴の面影もなく。  自分のことなどいつか忘れていられるくらいにと願ったことだけが叶わなかった。  その代わりに与えられたものが世界の底にいた少年を二人、救えた。  当たり前に与えられなかったものも得られなかったものも全てを自分で生み出して手に入れてはその姿が正しいのか不安にもなる。けれどそれらがけして決まった形ではないことも、既に知って生きてきた。  あるものを無くすことは容易くはない。無ければ無いで作り出すことの方が簡単で、今まさに形になった。  ママとパートナーにもきちんと紹介をしよう。夏野と夏樹には正式に挨拶もしよう。まるでそれらしい、家族のように。 (了)
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