証言一・水原樹の話

1/1
前へ
/3ページ
次へ

証言一・水原樹の話

 私の愛したあの人は、それはそれは綺麗な花嫁でした。黒檀のように美しい黒髪に、深雪(みゆき)のように白い肌、紅をささずとも艶やかに赤い唇。けれど、私が何より好きだったのは、たおやかなれどもどこか危うさも秘めた、そんな蠱惑的な瞳でした。 証言一・水原樹の話  私、水原樹が彼女と出会ったのは、忘れもしない我が母校、第三高等学校の入学式のときでした。踏めばぎしぎしと鳴る板張りの廊下を、長いスカートを翻しながら歩んでいた時です。  その日は生憎(あいにく)の雨でした。この日までもっていた桜も、この雨できっと散ってしまうことでしょうと、どこか寂しく思ったことを覚えています。 「もし、よろしいですか?」  その凛とした声に振り向けば、我が校指定のセーラー服――臙脂色のセーラー服は、かつて珍しいと言われたものです――をまとった女学生がひとり、こちらを見上げていたのでした。 「迷ってしまったのですが、職員室の場所はご存知で?」  その落ち着いた声音は知的さを、浮かべる微笑は美しさを十二分に表していました。  その時は私も職員室へ向かうところでしたから、よければ一緒に、と応えました。  彼女は「佐々木みのり」と名乗りました。今年の入学生のひとりだといいます。それならば迷ったところで仕方がない話です。この学校はなかなかに伝統も歴史も持つ学び舎でしたが、そのために増改築が繰り返され、少々複雑な構造になっていたのでした。構内図の整備は、まだまだ時間がかかるようです。 「けれど、随分早くに来たのね」と尋ねれば、家には居られなかったのです、と彼女は言いました。 「今日は、姉さんの婚姻式なのです」 「出席しなくてよかったのですか?」 「私には、勉学のほうがまだ大事ですから」  となりを歩く彼女がそう小さく笑ったのは印象的でした。そう父上が言うのです、と彼女は言いました。 「私も、姉さんのようになりたいのです。いつかは、私も姉さんのような花嫁になるために、この学校に通うことにしたのです」  そう言う彼女は希望に満ちた目をしているように思いました。  あの頃、女性にとっての学校という場所は勉学の場ではなく、教養を身に付ける場でした。通うことが出来るのは家が裕福な子どもたち。そして、女であるがゆえに家督を継ぐことも出来ない彼女たちは、家が栄えるようにと権力者の元へ嫁ぐことが定められていました。  職員室へつけば、彼女は静かに頭を下げました。構うことはないですよ、といえば、それでも礼は大事でしょう、と彼女は言いました。  それが、彼女と初めて話をした場面でした。それまで女性にそこまでの好意を抱いたことがなかった私ですが、彼女だけは違うと思いました。  彼女はどんな家の子なのだろう、と私がいろいろな方に尋ねてみれば、やはり良家の子女であることは間違いのないことのようでした。聞けばお姉さんも同じこの学び舎へ通い、卒業したその翌年、今年に婚姻の儀を行った、とか。その妹さんなのだそうですと私がいえば、そういえば目元が似ているね、などとみな言いました。  そして、彼女には既に家の定めた許嫁がいる、と聞かされるのはすぐのことでした。正しく、彼女は花嫁としての教養を身に付けるために、この学舎へ通うことになっていたのです。  人の印象など曖昧なものですが、あんな印象的な彼女を忘れることなど出来ないと、私は当時思っていました。  その証拠、という話ではないですが、それらの話を聞いていて、どこか寂しく思ったことは鮮明に覚えています。今から思えば、なんと浅はかなことでしょう。  たとえ彼女に許嫁がいなくとも、私と彼女が結ばれることなど決してありえないのに。浅はかな夢と、笑ってくださっても良いのですよ。  そうして、この学舎での生活が始まりました。彼女とはクラスこそ違えども、週に何度か顔を合わせる機会がありました。  教科書を読みあげる声も、学友と話す口調も、たおやかなその手つきも、とりわけ何かあるわけでもないのに、彼女は人の目を惹きました。私も例外ではありません。  彼女はとても聡明でした。こと古典漢詩を読ませれば教師陣の預かり知らぬ仔細に渡って読み解き、商いを営む家の出でもないようでしたが計算などの数学にも覚えがあるようでした。  どこかで教わっていたのですか、と尋ねても、彼女はただ曖昧に微笑むだけで明確に答えようとはしませんでした。  彼女の家は古いお家のようでした。彼女の博学もそこで育まれたものなのだろうと、私は思っていました。  そんなある日、彼女が突然学校へ来なくなりました。学校に連絡は入っていましたが、いつ学校に来られることになるかはわからない、とのことでした。  家へ訪ねようかとも思いましたが、私が彼女を訪ねるわけにも行きませんでした。そんな立場にはなかったのです。  一週間後、ようやく彼女は学校へやってきました。家庭の事情、と彼女は学校へ説明をしましたが、それにしてはひどく彼女は憔悴して見えました。心配する学友の言葉にもう大丈夫と返す彼女の笑みは、どこか儚げでもありました。  いつか姉のようになりたいと告げた彼女は、学校へ戻ってからというもの何かに怯えているようでした。それまで仲良くしている学友へ話を聞いても、どこかよそよそしくなった、と言うのです。  家庭の事情で長期休んでいたこともあり、それが理由なのだろうとは知れた話でした。けれど、彼女は誰にも話そうとしませんでした。どこか人と接することも恐れているようでした。  そうなれば、私にできることは何もありませんでした。とりわけ、私は彼女と学友でもなければ親しいわけでもありません。表立って特別視するわけにもいきません。  何故か? 当然ではありませんか。  私はあの時、教師でした。あの学舎の子どもたちを率い、守るべき立場でした。当時は聖職扱いだったりもしたのですよ。だからこそ、必要以上に傍へ寄ることはできませんでした。  高等学校の女学生とは、ひどく敏感な生き物です。少し変わった子というのは、どうしてもそのうち阻害されていくものです。彼女も例に漏れず、遠巻きに眺められるようになりました。  彼女自身としては、それが望みだったのかもしれません。ひとりで校内を歩く彼女は、どこか寂しげでもありながら、肩の荷が下りたようにも見えました。  そうして、彼女は静かに学校を去って行きました。成績も何ら問題はなく、優秀でありました。  ありがとうございました、と教師陣へ頭を下げた彼女は、卒業後の足取りもわかりません。特別連絡を取るということも出来ませんでしたから。  けれど、彼女が夢だと語った幸せな花嫁に、なってくれていることを願うばかりです。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加