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Ⅰ 文守
どうしてこうなった――。
驚きは限界値を越えると、冷静に変わるらしい。
目の前で殺人が起きた。いや、正確には殺「人」じゃない。
それにこれは決闘だ。でも、想像していたものと全然違う。橋下の川原で殴り合い――なんて青春小説でも滅多にない決闘を想像していたと言えば、それこそ腹を抱えて笑われるだろう。
風が吹く。比較的短い髪が、乱れるくらい強く。
まさか、出社初日からビルの屋上でアクション映画顔負けの場面に立ち会うなんて誰が想像しただろう。少し目線を下げれば、色とりどりの小さな光が目の前に広がる。ごうっと耳元を風が吹き抜けていった。
「終わっちゃった」
まだあどけなさの残る青年は、そう言って口を尖らせる。彼の決闘相手は、どこにも姿が見えない。ただ、黒い水たまりだけが不自然にそこにあった。
信じてもらえるだろうか。
いや、私が今見たものを言っただけでは誰も信じてはくれないだろう。でも、信じてほしい。
この世界には、文字を食う鬼がいる。
◇一 文守
遡ること三日前。都内から新幹線で二時間離れた場所にある私立図書館の書棚に返却された本を戻していたときだった。
「稲森さん、ちょっといいかな」
真っ白に染まった髪の館長が、親しげに呼びかける。
突然館長室に呼び出され、どぎまぎしていた私は、優しい声音と口調で説明された内容をもう一度、胸の中でかみ砕く。
「異動、ですか」
ほろりと言葉が飛び出た。
好好爺と言う言葉がぴったりの館長が、大きく頷く。
「異動というより出向と言った方が正しいかな――。ようやく仕事に慣れてきたばかりだというのに申し訳ないけど、書保からの要請なんだよ」
書保――正式名称、日本書籍保全協会。書店や図書館だけでなく、出版社や卸業者など、書籍を扱うほぼ全ての企業が加盟する協会だ。
携帯電話やタブレット端末など、誰もがネット回線を通してニュースやブログ、書籍を手軽に楽しめるようになって数十年。十年前、政府がほぼ強制的と言っても過言ではない、大々的なペーパーレス化政策をとったことをかわぎりに、今では企業だけでなく、家庭内でも紙を使うことが少なくなった。
しかし、本や新聞は未だ紙を媒体として、世間に出回っている。
電子書籍も昔に比べ浸透しているが、それでも物としてほしいという欲求が人にある限り、なくなることはないのだろう。書保は、そんな年々減少傾向にある紙媒体の書籍の保全と利用環境整備や推進を目的として組織された。いわば紙の書籍の守人ともいえる。
願ってもない話だが、どうして自分なんだろう。そんなことを思っていたときだ。
「それで、早々で悪いんだけど」
館長の眉が下がる。
「明後日には書保の本部へ来てほしいそうなんだ」
「え、本部って」
確か東京じゃ――。
「職員専用の寮がある。手続きはこっちでしておくから、稲森さんは引っ越しの準備とかあるだろうし。明日は休みでいいから」
そう言われ、その日は早退扱いになった。
どうしてこうなった。
本に関わる仕事に就きたい――それが幼い頃からの夢だった。
しかし、現在は電子化社会だ。就職浪人をしてまでなりたい人がいる中、希望通り就職できるはずもなく、結局本とは関係のない会社に就職した。縁がなかったんだと思うようにしたけれど、でも、やっぱりどうしても本と関わりを持ちたくて、たまたまみつけた求人広告がきっかけで今の職場に転職した。
それが三ヶ月前。
ベテランばかりの職場だ。人が抜けた穴は、大きいより小さい方がいいに決まっている。
生まれてこの方、故郷から離れたことはない。突然決まったせいか、そこまで不安はない。むしろわくわくしている。
書保。それも本部だ。珍しい本や原稿を見る機会があるかもしれない――そう考えただけで期待に胸を膨らます。
だが、現実はそう甘くはない。
「小町私立図書館から来ました、稲森わかばです。よろしくお願いします」
うわずった声が出た。顔が赤くなるのを感じながら頭を下げる。
さすが書保の本部だ。加盟者数が多いだけあり、立派なビルに構えている。昨日上京してきたばかりの人間にとっては、見るものすべてが目新たらしい。
まず総務経理部に連れて行かれたあと、眼鏡をかけた気むずかしそうな男性が無表情のまま「所属部署まで案内する」とだけ言ってさっさと歩いていってしまった。迷子にならないよう、必死に追いかける。
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