Ⅰ 文守

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 エレベーターに乗り、降りた階に掲げられたプレートを見て、足が止まった。フロアプレートには「警備課」という文字が書かれている。 「あ、あの!」  何かの間違いだと思った。生まれてこの方、武術を体得したことも誰かと殴り合いの喧嘩をしたこともない。むしろ運動は苦手な方だ。  男は、面倒臭そうな顔でこちらを見たあと何も言わずに先へ進む。  総務部もそうだったが、基本的に完全な個室部屋は少なく、パーテーションである程度の仕切りはあるものの、フロア全体が見渡せるような作りになっている。書保といってもさすがに業務上でのペーパーレス化は進んでいるようで、巨大モニターやパソコンなどの電子機器は何台もあるものの、書棚や書類の類は見当たらない。所々に置いてある観葉植物が青々しいのにもかかわらず、このフロアは他よりも暗い。すぐに窓がないからだと気付く。  警備課と言っても事務的な作業かもしれない。そんな都合のいいことを考えていたら、男の姿がいきなり消えた。ただ、曲がっただけなのだが、少し肝が冷える。男はとある一角に足を踏み入れていた。四台のコンピューターが半円を書くように設置され、円の中央部には二台のコンピューターが設置されている。何となく囚人監視システムであるパノプティコンを連想した。奥の四台には男女二人ずつ座っており、背中しか見えない。  明らかに仕事中の雰囲気だ。男は特に声をかけることもなく中へ入っていったが、さすがに真似できない。 「失礼します」  そう言って入った瞬間だった。背中を向けていた四人が、一斉にこちらを見た。驚きつつも先に入った男の背中を追いかける。 「有川(ありかわ)、今日からここに配属される新人だ」  男が声をかけた先には、スーツ姿の女性が座っていた。肩まで伸びたポニーテールを振り、こちらを見る彼女はわかばが持つ「仕事ができる女性像」そのままだった。 「長谷川(はせがわ)さん、間が悪すぎです」  明らかに不機嫌な声で有川と呼ばれた女は言う。 「内線の一本くらい入れてから来てください」  そんな有川を無視して、長谷川と呼ばれた眼鏡の男は稲森の方を向くと「あとは有川に聞け」とだけ言って、さっさとその場を後にしてしまった。 「ちょっと、長谷川さん! 今から現場に行かなきゃいけないんで、それまで預かっていてください!」  大きな声で有川が叫べば、長谷川が振り向いた。眼鏡を人差し指でかけ直す。 「それならちょうどいいじゃないか。早くここがどういう場所なのか教えた方がいいだろ」  有川が後を追いかけていったが、結果は変わらなかったらしい。すぐに戻ってきた。 「あのインテリ眼鏡め」  怒りをたぎらせる有川を前に、稲森は大木のように立ち尽くすしかない。  紫煙でも吐くようにため息をつくと、有川は机の上にあったマグカップに口を付けた。見定めるような視線がつらい。 「あなた、名前は?」 「稲森わかばです」 「稲森さんね、とりあえずあそこのロッカーを使って。配属早々で悪いけど、今から現場に行かなきゃいけないから。免許は持ってる?」 「は、はい!」 「それじゃあ、ロッカーに入っている荷物を持って、あたしについてきて」  それが目まぐるしい一日の始まりだった。  やってしまった――。  わかばは、身を縮ませながら助手席に座っていた。ハンドルを握るのは、有川ではない。整った顔立ちの、おそらくわかばよりも若い男だ。  有川は、前を走る五人乗り乗用車を運転している。 「おもしろいね。稲森さん」  隣で笑う男は、藤崎(ふじさき)と名乗った。一見、金髪の大学生だ。どことなく軽薄そうな印象を受ける。 「免許ってなんのことだと思ったの?」  例え年下であろうが、勤続年数はわかばより上だ。馴れ馴れしいなと思うものの、細かいことは気にしない。 「……司書免許のことかと」  まさか運転免許のことだったなんて。  消え入りそうな声で答えれば、かき消すような大きな笑い声が返ってきた。 「天然って言われるでしょ」 「――抜けてるとは言われたことありますけど」  けらけらと頭を振って笑う藤崎に視線を送る。運転をしているのだ。ちゃんと前を見てほしいと思って送った視線なのだが、藤崎には初現場に緊張しているように見えたらしい。 「大丈夫、大丈夫。稲森さんは見ているだけでいいから。現場のことは俺たちに任せて」  そう言って、藤崎はかけているサングラスを押し上げる。  よく見れば、太陽光を遮断するスモークフィルムがフロントガラスを含め車のガラスというガラスに張られている。――運転席、助手席の窓に張っていいものではなかった気がするのだが。  大丈夫なのかな。  わかばは曇り空を見上げた。
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