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人影が目に入った。先ほどわかばたちが利用した入り口以外にも、扉があったらしい。ただし、自動ドアではなく手動で開けるタイプのドアで、裏口になるのか、わかばとその人影以外、人はいない。
そのせいか、耳鳴りがするほど静かだ。人影は、ワイシャツ姿の男性。わかばが探しているのは、西洋人形のような女性だ。目立つ容姿をしているため、見間違えることはない。階段を降りたわかばは、男の隣を早歩きで通り過ぎようとした。そのときだ。
「お前、文(ふみ)守(もり)か」
「え?」
その瞬間、ぐわんと視界が回る。目に見える風景がいきなり天井に変わり、わかば自身も何が起きたのか理解が追いつかない。
気迫に満ちた男の顔が目の前に迫っているとわかった瞬間、頭の中が真っ白になる。体が震える。止めたくても自分ではどうにもできない。離れたくても、押さえられた両手首は、折られるのではないかと思うくらい痛くわかばの力では動かせない。
「バカだね、お前」
聞き覚えのある声が耳に入る。
驚いた男が顔を上げた瞬間、姿が消えた。自由になった体で素早く立ち上がれば、藤崎が隣に現れた。さっきまで誰もいなかったのに、だ。
「それを言うなら元文守だろうが。――まあ、結果オーライだけど」
どこか古くさい言葉で藤崎は言う。
「さっきの男は?」
身構えたまま周囲を見回すが、男の姿はない。
「逃げた。下級の奴ほど逃げ足早いから」
人ではない――先ほど藤崎の言った言葉がよみがえる。
「まあ、もう袋の鼠だけどね。捕まるのも時間の問題。ただし、ちょっと面倒くさくなったけどね」
藤崎はどこか遠くを見つめながら言う。
「とりあえず、有川さんのところに戻ろう」
そう言って、先へ行く藤崎について行こうとしたときだ。
「あ、あれ?」
足に力が入らなくなり、わかばは壁にもたれ掛かるようにして座り込んでしまった。
「どうした?」
わかばの異変に気づいて藤崎が戻ってくる。
「すみません、ちょっと腰が抜けちゃったみたいで。あとから行くので先に行ってください」
「いやいや、そういうわけにもいかないでしょ」
藤崎がわかばの手を掴もうとしたときだ。わかばは思わずその手を振り払ってしまった。一瞬、目が合うものの気まずさからか、わかばから視線を逸らした。
「すみません。わざとじゃないんです」
年下でもダメなのか、とわかばは内心自分自身に落胆する。震える指先を合わせ、どうにか落ち着かせようとする。
「どっか怪我した?」
しゃがみ込んで視線を合わせてくる藤崎に、首を振って答える。
普段はそうでもないが、今回のようなことを目の当たりにすると、極度に男性を恐れる傾向がある。例えば、大声で怒鳴られたり乱暴なことをされたりしたとき、自分でも制御できなくなるほど、震えが止まらなくなる。原因はわからない。過去に男性に対してトラウマになるような記憶は一切ない。
「大丈夫です。少しすればよくなるので」
大きく息を吸って、吐く。視界に誰も入れないようにしながら、そうしているうちに、徐々に震えも収まった。もう大丈夫だろうと顔を上げたとき、ベンチに腰掛けた藤崎の姿が目に入る。
「顔色、少しよくなったかな」
ぎょっとしたのは言うまでもない。気配がないものだから、いないと思っていた。
「立てる?」
「大丈夫です」
背もたれにしていた壁を支えに立ち上がる。
「有川さんたち、この近くまで来ているみたいだし、早いとこ合流しよう」
何でそんなことがわかるのだろうか。不思議に思ったが、藤崎の言葉に従う。
「さっきの人、捕まえるんですか?」
まだ掴まれた手首が痛い。藤崎の背中を見つめながらわかばは問う。
「人、ねえ」
藤崎はそう言うと足を止め、振り返った。
「薄々気づいていると思うけど、あれは人じゃないよ」
正面側の出入り口と違い、こちらは人の気配がない。利用客があまり多い時間帯ではないのも理由だろうが、それにしても沈黙が重くのしかかる。
「あれは文(ふみ)鬼(おに)。正確には野良(のら)がつくけど。さっき文字が消えた本を見たでしょ? あれを食った奴とは違う奴だけど、まあ他で同じようなことをしているから捕獲対象に変わりない」
「あの、どういうことでしょうか?」
さっぱり話が見えてこない。つまり、さっきの男は人間ではなく、ふみおにという化け物で、本の文字を食うということだろうか。
藤崎は呻きながら頭をかきむしると「俺、こういうの苦手だからなあ」と一人呟く。
「詳しいことは、有川さんから聞いて!」
そう言って再び歩みを進める。何もわからないままだが、わかばもそれ以上深く追求するようなことはしなかった。
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