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藤崎の言ったとおり、有川は比較的近くにいた。二階のトイレの前にある三つの影。遠目からでも黒い姿は目立った。
駆け寄って気がつく。先ほどの男が、短髪の女に組み倒されている。有川も今この場に到着したようで、少し息が上がっていた。
男が「離せ」と暴れるが、びくとも動かない。わかばより小柄な女性のどこに男を押さえ込む力があるのか。妙に感心してしまう。いや、そんなことよりもどうして男の情報を伝えていないのに、彼女は男を取り押さえることができたのか。
「時期に他の奴らも来る。無駄な抵抗は諦めたら?」
そう藤崎が声を上げた瞬間だった。床にへいつくばった男が、不適に笑った。
嫌な予感がしたそのときだった。
「メメント・モリ」
男が苦しげな声でそう言った途端。押さえつけていた女の手が離れた。男は勝ち誇ったような顔でゆっくり立ち上がる。
「藤崎」
有川が非難の声を上げる。
そんな有川に向かって、藤崎は両手を上げ言う。
「俺たちに血の盟約の使用許可が出ていれば、こんなことにはなっていない」
まるで自分は悪くないと言いたげな態度だが、有川はそれ以上何も言わなかった。
「それに、相手の身動きを奪ったら、すぐに口をふさぐのは鉄則だろう? 俺のせいじゃないね」
自由になった男は、逃げるわけでも暴れるわけでもなく、静かに周囲を見回していた。
メメント・モリ――ラテン語で「死を忘れるな」という意味の言葉だ。解釈としては、「いつか必ず死ぬことを忘れるな」だったはず。
「まあ、そんなに睨むなよ。イータ――これでいいだろう?」
「また、厄介な真似して」
はっと振り向けば、いつの間にか探していた金髪の女が立っていた。あの俳優のような男もいる。
「今夜、書保の本部屋上の使用を申請しておく」
ため息を吐きながら有川はそう言う。
「ごめんね、有川さん」
顔の前で手を合わせ、謝る藤崎を一瞥して、もう一度有川はため息を吐いた。
解放されたあの男は、いつの間にか姿を消していた。
文字を消しに行ったのではないかと思ったが、藤崎いわくそれはないとのことだ。
「血の盟約――まあ人間でいう決闘を申し込んだんだ。他の場所で食う可能性はあるけど、少なくともここじゃあしないだろうね」
「あの、それはそれでマズいんじゃないですか?」
職務放棄だと言われかねない。しかし、藤崎はそんなわかばの不安を笑った。
「まあ、仕方ないよね。結果がこうなっちゃったから。でも、野良の文鬼を捕らえるチャンスに代わりはない。野放しにされているよりマシでしょ」
「それは、そうかもしれないですが」
でもやっぱり腑に落ちない。そもそも、あの男が文字を食う人外だっていうのも未だに信じられないのだ。正直、いつ「ドッキリ大成功!」という看板を持って誰かがやってきてもいいように身構えている。
運転席に座り、ハンドルを握りながら藤崎は言う。
「稲森さんは、あまり驚かないんだね」
「驚いていますよ」
本心は胸にしまいつつ答える。そんなわかばの返答に藤崎は声を上げて笑った。
「いやいや、それでも落ち着きすぎだって。まるで最初から俺たちのことを知っているみたいだ」
それはない。
正直、文字を食う化け物がいるなんて話自体、信じていない。
「同族狩りって言わないんだね、稲森さんは」
「同族狩り?」
目を細め、言葉を繰り返す。
「俺たち人間じゃないって言ったじゃん」
「ええ。それは聞きましたけど」
「あいつと一緒じゃん」
「……同族なんて聞いていませんけど」
そう答えると藤崎は「あちゃー」と一人声を上げていた。そしてわかばは、重大なことに気がつく。
「ちょっと待ってください! 同族ってことは、藤崎さんも文字を消すことができるんですか?」
皆で私をからかっている――その考えはまだ消えない。でも、これだけは聞き捨てならない。
本に害を成す者が、本を守る警備課にいていいはずがない。たとえ、かなり練り込まれた嘘話だとしても、だ。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
運転しながら藤崎がこちらを見る。危ないから前を向いていてほしいのだが、今は言葉の続きを待つ。
「有川さんと稲森さん以外、皆そうだけど。一つの班に、管理人は二人。俺たち実行員が四人って決まっていて。でも、人員不足でね。今は全部で三班あるけど、この班だけずっと管理人が一人足りなかったんだ」
警備課に配属された理由が、何となくわかった気がする。適材適所は二の次で、人員不足解消が目的だったに違いない。
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