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「俺たち、人間より感覚は優れているから。あの距離なら目に見える範囲にいなくても聞こえる。まあ、聞かれたくない話とかもあるだろうから、明らかに俺たち向けだという話以外は、聞かないようにしている」
なるほど、と思いつつ肝心のことをわかばは問う。
「それなら、藤崎さんも本の文字を消すことができるじゃないですか?」
絵だけ残った「星の王子さま」が脳裏をよぎる。
藤崎は、一瞬黙り込んだが、すぐに声を立てて笑い始めた。
「確かにごもっともな質問だよな。でも、そう言うのはここだけにしておけよ。野良とひとまとめにされるのを嫌う奴もいるから」
片手でハンドルを操作し、遠くを見つめながら藤崎は言う。
「俺たちの社会は厳格な階級制度で成り立っている。一番上の奴が、人間を困らせるなー、勝手に文字を食うなーって言うもんだから、俺たちは今ここにいるわけ。賃金の他に書物をもらっているし、餓死することはない。でもやっぱりそれが気にくわない奴もいるってわけ」
だから、藤崎たちが文字を勝手に食うことはないという。
「そうなんですね」
そう言いながら、よくできた設定だなと感心する。
文字を食う化け物――確かに身体能力は目を見張るものがあるが、それを差し置いても化け物には見えない。どこからどう見ても人間である。
文字を食う化け物が本当に実在するならば、騒ぎにならない方がおかしい。そう思いながら、窓に映る自分の顔を見つめていた。
本部に戻った途端、有川はパソコンに向かうとキーボードを叩き始めた。もしかしたら、忘れられているかもしれないが、わかばは本日が初出勤だ。何をしたらいいのかはもちろん、どの席に座ればいいのかもわからない。
隅の方で立っていれば、他の面々が戻ってきた。彼らは厳重なチェックをされてからでないと中に入れない。そこまでしなくても、いいのになあと思いながら戻ってきた彼らを見る。その瞬間、一際大きくキーを叩く音が響きわたった。
「よし」
そう言って有川は椅子に座ったまま、大きく伸びをした。
「藤崎、申請はしといたから。あまり派手に暴れるなよ?」
「努力しまーす」
藤崎はそう言って、くるりと座った椅子ごと回転した。ふざけた態度だが、有川が注意することはなかった。
他の面々も席につくと、キーボードを叩き始めた。誰もが電子機器を使用するのが当然の社会だ。さすがに、打ち込む速度は早い。しかも、画面を見ながらキーボードを打つ、ブラインドタッチではない。彼らの視線は画面ではなくキーボードにあるような気がした。
独特な打ち方だ。
その様子を眺めていたときだ。
「少し時間をもらえる?」
何だろうか。促されるまま椅子に座る。
「藤崎、ちょっと来て」
「なんすか、有川さん」
嫌な顔一つせずにやってきた藤崎に有川は神妙な顔つきで言う。
「痕跡は?」
「ありますけど。さっきの奴が飛びかかっていったのもそれが原因だし」
「――何で言わなかったのよ」
「いやいや、俺だけ責めるのは不公正っすよ? 他の奴らもわかっているでしょ?」
むっと口を尖らせる藤崎を一瞥して、有川は息を吐いた。
「まあ、いいわ。もう過ぎたことだし。とりあえず、解いてもらえる?」
「稲森さんに許可とらなくていいんです?」
わかばの肩がぴくりと跳ねる。蚊帳の外から引きずり込まれた気分だ。
だが、話が全然見えてこない。わかばの意見など関係なく話が進められる。
「ここに配属された以上、言葉で説明するより早いでしょう?」
ね? と言われ反射的に頷いてしまった。
「有川さんってたまに怖いよね」
ぼそりとそう言うなり、藤崎はわかばの前で膝を折る。
「ちょっとちくっとするけど、我慢してね」
そう言って、藤崎は眉を寄せるわかばの手を取る。途端、痛みが走った。料理中に軽く指を切ってしまった程度の痛みだ。視線を落とせば、人差し指の腹からぷっくり膨らむ血が見えた。
一体、何をさせられるのか――一気に不安が押し寄せる。
「大丈夫、大丈夫。取って食ったりしないから。健康診断みたいなもん」
そう言って、わかばの手を優しく包み込む。安心させようとしたのだろう。それはわかる。しかし、その瞬間藤崎の手を振り払って逃げ出したい衝動に狩られた。すんでのところで、どうにか押さえ込む。
怖い。
足に力を入れ、気を紛らわす。藤崎は、そんなわかばの様子に気づくことなく、一心に人差し指に乗る血玉を見つめる。
なるべく今の状況を考えないよう、視線を上に上げ、今日の夕食をどうしようか考える。キーボードの音に耳を傾けていたときだ。
「・・・・・これは無理だ」
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