第一章:青色ロスタイム

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第一章:青色ロスタイム

 恋する乙女の賞味期限は、どうやら短く儚いものらしい。  社会人になって五度目の秋。  私、山下晴(やましたはる)はそれをいっそう強く感じる年となった。  職場のお昼休みの今、女性の場ならではの会話が目の前で繰り広げられている。  夫の収入が全然上がらないとか、さっさと結婚したいのに彼氏が渋っていてイライラするとか、この前会った男は大外れだったとか。  そんなふうに無限に不満が出るのに、結婚生活や恋愛をやめようとしないのだから、不思議だなって私は思う。  社内での恋愛の話題といえば、営業部の東(ひがし)さん。  たしか、私より少し年上。親切でかっこよくて、営業成績もよくて優良物件なのだとか。彼氏や夫はどうした、と思うけど、まあ、そういうことではないんだろう。ここら辺は女子なんだなと、少し面白くはあった。  私は、この輪にいて愛想笑いを浮かべているだけ。  ついていけない、というのが本音だった。  それでも高校以来の友達と、その職場の友達がいるこの場から逃げるわけにはいかない。  なぜなら、私はこの会社に事務として入社して、まだ一年も経っていないから。  仕事を教えてもらったりサポートしてもらったりするには、ある程度の良好な関係も必要不可欠。  それに、この職場を紹介してくれたのがその友達だった。そのまま面接等々をすると、前の仕事が珍しく面白がられたのか、案外あっけなく採用が決まった。  言ってしまえば、無職だった私にとっては恩人のような存在で、それをあだで返すような真似はできない。正直、きついなと感じずにはいられないけど。  昔は、こういう子じゃなかった。  かっこいい運動部の男の子に恋をして、窓からその姿を眺めているような、澄み渡る青空みたいに純粋な、恋する乙女だった。  いつから彼氏が結婚してくれないと不満や愚痴を言うようになったのか、数年ぶりに再会した私には知るよしもない。あの頃のかわいらしかった彼女に会いたいと思うほど、今の彼女はどこかたくましく、より遠い存在になってしまった。  とかいう私も、実は恋愛にはもう懲りごりしていた。  それは、昨年の秋。  七年付き合っていた彼氏に浮気をされ。  しかも、その女性と結婚されてしまったからだった。 「山ちゃんは今、良い人いないの?」  終業を目前にして、会社を紹介してくれた友達、スズに何気なく聞かれる。  山ちゃん、というのは、高校時代の私のあだ名だった。  小学校の頃も山ちゃんで、中学校はヤマ。それが巡り戻って、山ちゃん、というあだ名が三周目を迎えていた。どうも、山、という名字が扱いやすいらしい。  覚えている限りでは家族と、金輪際会うことのない元カレを除いて、私を下の名前で呼ぶ人は二人しか知らない。  ……その一人とは、もう会えるとは思えないけど。  私は彼女を横目に「うーん」と唸る。  これは年に数回、定期的に聞かれることだった。  いつも通り適当に受け流せば良いところなのかもしれないけど、今回の私は悩んでしまった。  このままでは、永遠に聞かれ続けるのではないか。  実のところ、この質問を少し鬱陶しく感じてしまっている。でも、やめてもらうように仕向ける方法を考えていないわけではない。  ただ、私自身が他人に話すことを躊躇っているだけ。  あまり、話題にされたくもないし。  けどこのままずっと変わらないのなら、いっそのこと話してしまったほうが楽なのかもしれない。  そう思い、彼女の方を向く。 「実は名古屋にいる時、遠恋してる彼氏に浮気されたんだよね」 「え、そうだったの!」  目を見開き声を荒らげるものだから、私はとっさに彼女の口を塞ぎ、声が大きいと注意する。少し落ち着いてきた頃、私は再び口を開く。 「しかも七年付き合ってた彼氏に」 「それは、災難だったね……」 「だから恋愛はもう……ね?」  苦笑いで言うと、スズは視線を落とし、しゅんとした表情になる。  もしかして、中々結婚を切り出してくれない彼氏とこの話を重ねてしまったのだろうか。だとしたら、悪いことをしたな。そう思い、彼女の顔をそっと覗き込む。 「きっと、もっと良い男がいるよ」  ぎゅっと、私の手は包み込まれる。私を見る眼差しはとても真っ直ぐで、優柔不断な彼氏の話しをする時の、淀んだ瞳とは歴然の差だった。 「協力するから、何でも言ってね?」  私は一瞬固まってしまうけど、すぐにどうにか笑みを浮かべる。一応、頷かないでおいた。意味はないと思うけど。  こんなはずじゃなかった。  同情してそっとしておいてもらうはずが、違う方向に同情されてしまった。  でもある意味、スズらしいなとも思った。  高校時代から、何かと面倒見がいいというか、友達思いな子で。  そんなところが友達として好きだったことを、十数年ぶりに思い出した。  色々あったからなのか性格がきつくなっていたけど、こういうところは全く変わっていないらしい。  依然として真剣な顔をしていて、私はさっきとは違う意味で笑顔になってしまう。  まあいっか。  そう、今なら思えた。  それから小一時間ほど。  スズから元カレについて質問攻めを受け、ようやっと帰路についたところだった。  好意でとはいえ、どっと疲れてしまった。明日は休みだし、節約と健康のためにも簡単に自炊しようかと思ったけど、もうそんな気力まで削がれている。スーパーの総菜でも買って、冷凍したご飯をチンしようかな。  ぼんやりと考えながら、とぼとぼ駅の改札を出ると、夜なのに外が騒がしいことに気づく。太鼓の音や喧騒がひしめき、つい目を細めてしまう。  奥が見えないほど人で溢れ、水風船すくいやりんご飴など、路上の端々に屋台が立ち並んでいる。  そういえば、今日は駅前で祭りだったんだ。  私の地元の駅の祭りは、秋に行われる。  どうして秋なのかは分からないけど、誕生日とか、たぶん何かしらの理由があるんだろう。  たしか夕方くらいに踊りや神輿などの余興をして、主に夜は屋台を楽しむ的な感じだったはず。  名古屋に引っ越す前に来て以来だから、かなり久しぶりの光景だ。  最後に行ったのは……そうだ、元カレとだった。  たしか就職先が名古屋に決まって、引っ越す前の年。しばらく来られなくなってしまうからと、私が地元の祭りに行っておきたい、と彼の前で口にした。そしたら、せっかくだし行こうって言ってくれたんだっけ。  彼は優しい人だったと思う。  遠距離になるとしてもやりたい仕事を応援してくれたことや、記念の日にはサプライズしてくれたこともあった。  この祭りだって、私が食べたいものを優先して連れ回してしまったけど、面倒くさがらずについてきてくれた。  だけどそれは、浮気さえしなければの話。  あれは私が仕事で行き詰って、気分転換も含め、数か月ぶりに当時の彼氏に会いに行った時のこと。  疲れていたせいで血迷っていたのか、アポなしで彼の家を訪ねた。  それがある意味で功を奏し、合鍵で部屋に入ると、すっぽんぽんの彼とその相手の女性の現場に遭遇。結婚まで行く前に、浮気を突き止めることができた。  正直、裏切られたことにショックは受けた。  でも不思議なことに、心はそこまで傷つきかなかったと思う。  遠距離恋愛をして数年経ったころから、彼のことよりも仕事の方が大事になっていた。本音を言ってしまえば、結婚もしたいとは思えなかった。  ぼんやりと、祭りの風景を眺める。  友達同士や家族連れ、そして恋人同士。  記憶として頭に浮かぶのは、彼と過ごした時間。  だけど、そんなこともあったな、としか思えなかった。  楽しかったなとか、悲しいなとか、本当に何にも感じさせてくれない。  今思えば、彼と付き合ったのも、何となくだった気がする。  それから七年間、当時の彼にときめいたことはあったかな。  そもそも。  私は、誰かにときめくことはできるのだろうか。  お祭りの中へと足を踏み入れてみる。それでもやや俯きながら、なるべく早足で進んでいく。楽しむつもりはあまりなく、りんご飴とチョコバナナだけでも買って帰ろうと思った。  どこら辺にあるかなと見渡していると、パンっと、破裂するような音に肩を震わせてしまう。興味がなくて気づかなかったけど、真横には射的の屋台があった。中学生くらいの男の子が身を乗り出し、懸命に狙いを定めている。 「がんばって」  となりの女の子が可愛らしく応援していて、その言葉に若干顔を赤らめつつ表情は引き締まる。  ああ、そういうことか。  つい微笑ましくて頬が緩む。でもそれといっしょに、胸の辺りが暗く沈んでいく。私には縁遠いことだなと、ふと考えてしまった。  でも、羨ましくなんかはない。そう、頭の中で繰り返し言葉にし、左右に首を振る。  かっこいいとこ見せられるといいね、と密かに武運を祈り通り過ぎようとした。  けど、おもわず立ち止まってしまう。  男の子が射的の銃で、ぎゅっと狙いを絞っているもの。  砂時計。  渡せなかった、ひび割れた砂時計。  そこにあるのはただの砂時計のはずなのに、幻のように一瞬だけそう見えた。  それに気づいた時、どくんと、明らかに胸の音が跳ねるのを感じた。その鼓動が、あの頃、あの人に抱いた胸の高鳴りに似ているような、そんな気がした。  私にも、たしかにあったんだ。  ときめいて、恋に落ちていった時が。  でもそれは十年前、女子高校生だった頃のこと。  これまでの私の人生。  恋というものに落ちたのは、その時が最初で最後だった。  秋のセミが、草木を揺らす風に乗って鳴り渡る。  空はすっかり夜の帳が降りていて、長袖のブラウス一枚ではやや肌寒い。腕を擦りながら足元にある、数枚の落ち葉を見据える。秋かぁ、日が落ちるのが早いな、と季節の変わり目に浸る。  最近、時の流れが早くなったような気がする。  そんなわけないけど、そう思わずにはいられないくらい、一日があっという間だった。  感じるようになったのは、たぶん会社員になってから。  東京で事務職に就く前は、名古屋の会社に新入社員として就職していた。  職業は、インテリア雑貨デザイナー。  といってもデザインだけをするわけではなく、クライアントと連絡を取り合ったり、材料や機材の発注を依頼したりなど、雑務的なことも同時に行う。  とはいえデザインがメインだから、ある意味、憧れの職に就けたといっても良いのかもしれない。  それでも、辞めてしまった。  耐えられなくて、逃げかえるように。  今、私は恋岬神社(こいみさきじんじゃ)に向かっていた。  高校生の時、よく通っていた場所。  地元に戻ってきてからまた、たまに来るようになっていた。  別に、あの頃に戻りたいとか、あの頃はよかったとか、そんなふうに感傷に浸りに来ているのではない、とは思う。  なんだろう。  しっくりくる、みたいなものだろうか。  だから、金曜日の夜は度々ここへ訪れていた。  五日連続の勤務を終えて、疲れ果てた体でぐでっと倒れ込むより、何もないここでしんみりしている方が、何となく楽だった。  何十段と階段をのぼりながら、ふと空を見上げる。  すると、星が輝いていた。  満天の星空とはいかないまでも、都内にしてはかなり多くの星々を見ることができる。  足を踏み外さないよう気をつけつつ、ぼんやりと星空を見据えていると、ふうっと一つ息が零れる。  きれい。  でも、この中のいくつかは、嘘の輝きなのかもしれない。  今こうして見えている星々は、数年前の過去の光なのだと、テレビかネットで見たことがある。  ということは、目の前に広がる星々のどれかしらは、数か月、数年後には見えなくなっている可能性もある。  ないはずの輝きを、ある物だと信じている。  まるで、デザイナーだった頃の私を表しているみたいだなって思った。  入社当初から張り切っていて、社内でも上位に入るくらいには努力していたと思う。睡眠や遊ぶ時間を削って、デザインを練っては描き、修正を繰り返していた。  それで数年間はうまくいっていたはずだけど、段々とうまくいかなくなっていき、社内で浮いてしまった。  逃げ出すように退社し、東京へ帰って来た。  きっとあるはずだと信じていた才能は、どこにもなかった。  ないはずの輝きを夢見て、数十年もの時間を無駄にしてしまった。  だから、心に誓った。  決してもう、私は私に期待しないと。  パリッと、何かが崩れる音が鳴る。  足元を覗けば、周りより少し早く散った葉が砕けていた。階段を囲む木々は、紅葉と呼ぶにはまだ緑々しいが、たしかに葉の付き具合には寂しさを感じる。  徐々に、視界が開けてくる。  階段を上り切ると、控えめに建てられた鳥居。  遠目からでも分かるくらいボロく、あちこち傷や、赤が剥がれて石がむき出しになっていて、今にも倒れてきそう。  そこをくぐり、真っ直ぐ続いている参道を歩く。手入れされていないからか少しガタガタしていて、底が硬いパンプスでは歩きにくく、転ばないよう気をつける。  そして進んだ先には古びれた、形だけの神社。  私の知る限りではあるけど、ここは私が子どもの頃から、年がら年中誰も寄りつかない。閑古鳥が鳴く、とはまさにこのことだった。  だから今日も今日とて、人っ子一人いないと思っていた。  ここで一人寂しく、祭りで買ったものを食べるつもりだった。  だらだらと、いつも座っている段差に進もうとするけど、つい足を止めてしまう。  私の定位置に、誰かが座っていた。 「月がきれいだね」  夜へ溶けいくように澄んだ声は、軽やかだけどたしかに低く、男性のもの。その問いかけるような一言に一瞬だけドキリとするけど、それが、私に向けられたものではないことはすぐに分かった。  彼の周りには、三匹の猫が囲い、一匹は膝の上で心地よさそうにしている。その子を撫でながら、口元が緩やかに微笑む。  俯いて猫を見つめているから、目元は見えない。  そこにはいったい、どんな瞳が描かれているんだろう。  この月明かりのように、優しい瞳をしているのかな。  そう、フォーカスを当てるように彼の方へと視線が吸い込まれていくと。  秋の風が、横なぎに吹く。伸びっ放しの長い髪を押さえながら、目を細めて軽くよろけてしまう。  ぱりっ。  微かに、落ち葉の割れる音が響く。  聞こえていたかどうかは、私には分からない。  けど、音が鳴ったのと同時に、彼の視線はゆるりと私を捉えた。  さらさらと風になびくまつ毛に、ハッキリとした目元の輪郭。月明かりが灯る真っ白な肌に浮かぶ、きらりと輝く瞳。  まるでそこに、もう一つの夜空が浮かび上がっているよう。  なんて、きれいなんだろう。  星空を見上げた時以上の感想が、気づけば零れていた。  彼は軽く首を傾げる。そこで私はハッとして「猫、可愛いですよね」とナンパするみたいに急に怪しいことを言ってしまった。  彼はきょとんとしたけど、すぐに微笑み「そうですね」と返してくれた。  ダボっとしたベージュのワイシャツに、太いデニムと、街で見るような今どきの若い子の格好。明らかに相手は年下だから、変質者扱いされずに済んだ――心の中ではされているかもしれないけど――ことに一安心する。  さて、これからどうしよう。  一人になりたいからここに来たのに、まさかこんな寂れた神社に先客がいるなんて思いもしなかった。  でも、仕方ない。せっかく懐かしの祭りの屋台で買ったけど、今日はこのまま踵を返し帰ることにしよう。  彼に何となく会釈をし、そのまま来た道を戻ろうとする。  だけど。 「こっちへ来ますか?」  彼の声に、私は足を止めていた。彼の方を見ながらも、何度か瞬きしてしまう。言っている意味は分かるけど、どうして私に向けてそれを言ったのか、私には全く理解できなかった。  ナンパ、なわけないよね。  そもそも声をかけるほどの顔面じゃなく、ただでさえ今日は金曜日という仕事の節目で、外見はいつも以上にひどいのに。 「猫、好きなんじゃないんですか?」  困惑しているのを察してくれたのか、彼は猫を優しい眼差しで愛でながら言う。  ……好き、か。 「まあ、そうなんですかね」  私は視線を落とし、ぽりぽりと頬を掻きながら、どこか曖昧に言葉にしていた。  猫は、わりと好きな方なんだと思う。猫のデザインが入ったマグカップやポーチを目にすると、他の物よりもかわいいなって思うし。  なのに、どうしてかな。  好き、というたった二文字を言葉にすることができなかった。 「この子たち、人馴れしてますから」  とにこにこ笑みを浮かべながら、隣をポンポンと叩いて促される。そういうことではないんだけど、とは思いつつ彼の無邪気さに負け、しょうがなく隣に座る。といっても、彼の手があった場所からは、もう二人分は離れたところにだけど。  最初は、寂しそうな女性を狙った新手の詐欺なのかなとか、やっぱりナンパなのかなとか、一応だけど女として警戒していた。こんなほぼすっぴんの私に誰が、とは思うけれど、念のため。  でも、すぐにそれはないなって思った。  ずうっと猫を触っているし、私にはあまり話しかけてこないし。さっきの感じからして、人見知りではないだろう。本当に、ただ隣にいるだけだった。  コンビニで買ったほぼジュースのぶどうサワーと、お祭りで買ったりんご飴を交互に口をつけながら、星空を眺める。  その間、私はちらちらと彼の方を見てしまった。  彼はいつまでも微笑んでいて、それに応えるかのように猫たちがすり寄り、甘える声を鳴らしていた。  モフモフしてる。  でもそれは猫の毛がモフモフしているというだけではなくて、彼を含めた雰囲気がとてもモフモフしていた。  中型犬が猫を甘えさてあげているみたいで、傍から見れば微笑ましいことこの上ない光景だった。 「触らないんですか?」  突然、彼に声をかけられる。私はしばらく固まってしまうけど、すぐさま声を荒げてのけ反ってしまう。  いったい何を言っているんだろう、この人は……。  すぐさま勢いよく首を横に振ると、彼は「かわいいのに」と眉を下げる。  かわいい……あ、猫のことか。そもそも、自分を触りますかなんてことの方がありえない。  彼の『触らないんですか』の意味に気づいた私は、ゆっくり彼の方へ近づく。 「やっぱり、触ってもいい?」  反応を窺うように聞くと、彼は「いいですよ」と猫を撫でる手を退けてくれた。おそるおそる、彼の膝の上で微睡んでいる猫に触れる。  そういえば、動物に触れるのは久しぶりだった。  かわいいなとか、毛がフワフワだなとか、こんなところに模様があるんだとか、色んなことを思ったけど。  なにより、温かかった。 「温かくて、抱きしめたくなりますよね」 「あ、私も思った」  つい、迫るように前のめりになってしまう。私はハッとなって距離を取り、缶のお酒を一口飲んで両手で包む。力が入ってしまい、ペコっと缶がへこんだ。そのまま、何回か音を鳴らしていると、彼の目元が綻ぶのが横目に映る。 「なら、両想いですね」  彼の言葉に、おもわず飲んでいたお酒を噴き出しそうになる。幸いちょっとしか飲んでいなかったから大丈夫だったけど、それくらい衝撃的な発言だった。  両想いなんて、何て突拍子もないことを言うんだろう、この子は。  でも、きっとそういうものなのかもしれない。  見た感じ未成年の彼には、両想いという言葉の意味はとてもカジュアルで、すらりと誰かに伝えられること。  私にとっては、重苦しいものでしかないけど。  そもそも、こんな簡単なことで両想いになれるなら、苦労しないのに。 「それは、少し違うんじゃない?」  私は咳払いをし、苦笑いを浮かべた。 「そうですか?」  けど彼はこっちを真っ直ぐ見据え、軽く首を傾げる。私はまた、そっぽを向いてしまう。その視線は、今の私にはあまりにも真っ直ぐ過ぎた。 「お互いの想いが通じ合って、うれしかったんですから、それは両想いですよ」  想いが通じ合えば、両想い。  そんなふうに簡単に考えられて、些細なことをうれしく思えれば、私はもっとうまく生きていられたのかな。  いや、たぶんもう無理。  俗にいう両想いは、彼の言う両想いから始まるものなのかもしれない。  だけど、その一瞬の繋がりに意味なんかない気がする。  そのひと時に一喜一憂して、時間が経つに連れて、本当は何だってないことだと気づくのだから。  これ以上時間を無駄にするのは、もううんざりだ。  そうやって考えているうちに色んなことを思い出してしまって、ついため息が零れてしまう。 「お疲れですか?」 「え、どうして?」 「何回かため息吐いてるから、そうなのかなと」  眉を顰めて心配そうにしていて、私は謝ってとすぐ口元に笑みを浮かべさせる。どうやら無意識にしていたらしい。 「何かあったんですか?」  問いかけるように優しく聞かれ、「そういうわけじゃないんだけど」と私は口籠ってしまう。  でもそれは、最近の私に何か悩みごとがあるから、というわけではない。  今の私には、何もないから。  なのにどうして、こんなにも毎日が憂鬱なんだろう。  東京に戻ってきてから――いや、本当は数年前からずっとそう。 「ただ、毎日にモヤモヤしてる」  いつの間にか、そう声に出ていた。  そのことに気づいて、とっさに「ごめん、何言ってるのって感じだよね」と笑いながら言う。 「そうですね」  彼は猫を撫でる手を止め、ちらりと私を見遣る。目を細めて笑っていて、彼は夜空を見上げると、ほうっと息を吐いた。 「僕たちがこうしてここにいるのも、きっとそういうことなのかもしれませんね」  緩やかに笑みは溶け、そう消え入るような声で零す。夜空の浮かぶ瞳は前髪で少しぼやけて見えるけど、どこか、私には物悲しく映った。  でもすぐにまた笑顔は返り咲き、優しく猫を撫でた。ゴロゴロと気持ち良さそうに鳴いていて、つられるように私もほっこりしてしまう。  見ていて、癒される。  さっきの言い方的に、彼もここへ一人になりたくて来たのだろうか。  まあでも、こんなにも愛らしい光景が見られるのなら、これを目的に来たくもなってしまいそうだけど。 「写真、撮りたいなぁ」 「いいですよ」  つい溢れ出た願望を聞いて、彼は猫だけが映るように体を引く。けど彼の手が止まったことが不満なのか、猫はじゃっかん低い鳴き声を出した。  彼はしょうがないなと口角を上げ、再び猫たちの頭や背中を撫で始めた。  何か、良いなぁ。  私はスマホのレンズを猫たちに向け、ピントを合わせようとする。でも、レンズの外の彼が、視界の片隅では映っていて、何故かそこに意識がいってしまう。  そのまま、何枚か撮った。  だけどこっそり一枚だけ、彼を含めた写真を収める。  見直してみると、やっぱりこっちの方が良いかもしれないと思った。 「猫、好きなの?」  スマホ画面で彼らを収めながら、気づけば聞いていた。彼は頷きつつ、というより動物がですかね、と猫の顎を撫でながら微笑む。 「この温かさが、好きなんです」  前触れなく強い風が吹くと、彼の前髪をさらっていく。  また、シャッターを切る。  撮れた写真を見ると、風のせいで前髪が鬱陶しいのか薄く目を細め、けど心地よさそうに唇の端は上がっていた。  たしかに、さっき猫に触れた時、温かかった。  いつぶりだろう、何かの熱に触れるのは。  思い出せないくらい久しぶり。  だからなのか、ちょっと涙が出そうなことに時間差で気づく。ぐっと、目元に力を入れて堪える。  それから、私は飽きることなく写真を撮り続けた。というのも、こっちのほうが良い構図になるんじゃないかと、無駄にこだわり出してしまったから。  私たちはその間、軽く自己紹介のようなものをし合った。  彼の名前は、零夜(れいや)くん。  何故か、彼は名前しか教えてくれなかった。  どうやら苗字があまり好きではないらしく、名前で呼んでほしいからだそう。  変わっているなとは思いつつ、そういうのは個人の自由だからそれ以上は聞かず、名前で呼ぶことにした。  零夜くんは一人暮らしをしているらしく、仕送りに頼り過ぎないためにも、週五で喫茶店でアルバイトをしているらしい。  アルバイトという響きが、少し懐かしかった。  美大生の時は実家暮らしだったけど、画材や資料でかなりお金を消費するからバイトは必須だった。  居酒屋とかコンビニとか色々やってみたけど、何だかかんだスーパーのバイトに落ち着いた。  というのも、課題や個人的な活動をする際に休みたい時は、快く許可してくれたから。むしろ、応援すらしてくれた。  その職場が特別だったのかは分からないけど、店長やパートの主婦さんたちは頑張っている人にはとても協力的だった。その代わり、サボりや怠けることには厳しかったけど。私はこう見えて仕事は真面目にやっていたから、思えばそこも加味してくれていたのかも。  就職してから改めて感じるけど、何だかんだ職場の人間関係は大切だ。  たとえ、それが望んでいた職種であったとしても。  私のこともちょっとだけ彼に話した。  といっても、会社で事務として働いていることぐらいだけど。そもそも私のことで話すことなんてほとんどない。というより、話したくないというほうが正しい気もする。  お互い、普通の大学生と会社員という感じ。だから特に話が続くこともなかった。  けど、一つ違和感があったのは。  私が名前を教えた時、彼が「本当に……」と、聞こえるか否かの声で呟いたことだった。  何が引っかかったのか気になって聞いてみるけど、「いや、同性同名のクラスメイトがいたの思い出たんです」と小さく笑いながら言う。  まあそういうこともあるよね、とこの時はそれくらいにしか思わなかった。 「あの、まだ撮るんですか?」 「この構図の方が描きやすいかなって、気になって」 「描きやすい?」  眉を細めて聞かれ、「ううん、何でもない」と私はとっさに左右に手を振る。  試しにカメラフォルダを確認すると、もう何十枚も撮っていることに気づく。さすがに切をつけないとまずい。 「じゃあ、最後に一枚」  人差し指を立ててお願いすると、彼はにこやかに首を縦に振ってくれた。  撮り終え、私は全ての写真を一枚ずつ確認していく。だけど、実は見る前から分かっていた。  最初に撮った写真がたぶん、この中だったら良い写真だと思った。  でも、不思議。  最初は猫がかわいいから撮りたかっただけなのに、いつの間にか表情や構図にこだわり、考えながら写真を撮っていた。  私は、こんなにも撮ってどうしたいんだろう。  そう悩んでみるけど、本当は分かっていた。  空に広がる眩しい星々の中で、息をひそめるように灯る星のように、私の心では湧き上がっている思いがあった。  これを、絵にしたい。  大学生やデザイナーだった頃は、そう思ったらすぐにでも鉛筆やペンを取り、アナログやデジタルどっちだって良いから、とにかくひたすら絵にしていた。  でも、今は叶わない。  なぜなら私は東京に帰ってきてから、一度も絵を描くことができていないのだから。 「晴さん」  突然名前を呼ばれ、えっと声を漏らし、勢いよく彼の方を向いてしまう。  まさか、いきなり名前呼びだとは思いもしなかった。こういう時は普通、最初は苗字呼びになるものだから。  いや、思い返せばあの人もそうだったかもしれない。  ずけずけと踏み込んできては、こっちの話をちゃんと聞いてくれて、尊重してくれる人。  突然会えなくなるまでは、そう思っていた人。  今、私の中のあの人は、約束を破ったひどい人だった。 「えっと、どうしたの?」  動揺を隠すように、一つ軽く咳払いをしてから聞く。  すると彼は振り返る。そこには、もう誰の祈りの面影も感じられないほど、廃れてしまった神社。  まるで誰かを思い浮かべているかのように、彼はそこへ微笑みかけた。 「また、ここで会いませんか?」  こっちを向くと、じっと私のことを見つめる。私はそこから一度目をそらし、食べ損ねていたチョコバナナをかじる。そしてまた、横目で彼を見やる。  こんな唐突な提案、いつもなら考える間もなく断るはず。  だけど、悩んでいる私がいた。  夜色に澄んだ瞳は、今も私のことを捉えている。ゆっくりとそこに、私も視線を合わせる。すると彼は猫から手を離し、ちょんちょんと自分の頬を突いた。首を傾げながらも、つられるように私も触れる。 「ついてますよ」  そこで彼が何を差しているのか気づき、私はとっさにティッシュを取り出して口元を拭う。見てみると、それにチョコレートらしき染みができていた。かあっと顔が熱くなる。  くすくすと笑う声が微かに耳に入り、私はじろりと睨む。それでも彼はいっそう笑みを零し、おもわずため息を吐いてしまった。 「零夜くん、笑いすぎ」 「呼び捨てで良いですよ、僕のほうが年下なんで」  それかみんなに呼ばれてる零くんで、と言われ、私はあることに気づいた。  そういえば、いつの間にか彼に対して敬語ではなくため口になっていた。大人になってからそういうことは少なくなったのに、不思議だなって思った。でも今さら戻すのも変だから、このままでいくことにした。 「じゃあ間を取って、零で」 「ひねくれてますね」 「うるさい」  とつい口が悪くなってしまう。  元々口が悪く、それが原因であまり人づき合いもうまくいかなかった。それではいけないと高校生になる時に思い立って、更生したはずだった。  だからこんなふうに、素を引き出されそうになっているのは、おかしなことだった。 「零も、ため口でいいよ?」  何となく私だけがため口なのも申し訳なくて聞くと、彼はうーんと俯きがちに悩みだす。少しすると「いや、やめときます」と顔を上げる。 「この状況もありだなって、思いませんか?」  私は、口を噤んでしまう。すぐに答えを出せずにいるけど、それはさっきの言葉を受け入れられないからではなかった。  今の時代って、何かと平等が求められる。というのもあって、零にも同じようにため口を使ってもらった方が良いのかなと思った。  けど、そういう考え方もあるんだなって、少し感心してしまった。 「ここで会おう、ってさっき言ったのも、そういうこと?」  問いかけに問いかけで返すのはよくない気もしつつ、聞かずにはいられなかった。どうしてなのかは、よく分からないけど。  零は目を丸くしキョトンとしていたけど、すぐにまた笑顔に戻る。するとまた、ちらりと背後にある神社の建物へと目を向けた。そこを見据えながら、一息つくと、ぱたりと仰向けに倒れる。その瞳には、月明かりが跳ね返っていた。 「僕たちには、きっと必要な時間だと思うんです」  ゆるやかに視線が絡む。吸い込まれるような透き通った瞳。でもどこか薄暗く、夜の空気に溶けいってしまいそうなくらい、私にはどこか不安定に見えた。  私は気づけば、首を縦に振っていた。  どうしてかは、分からない。  ……ううん、本当は分かっているのかもしれない。  ただ、単純に。  私は、零のことが気になっていた。  何かに対して、久しぶりに興味を抱いてしまった。  だから今は、それを優先してしまうのもしょうがないと、そう自分に言い聞かせる。  それから零は、もう夜も遅いからと、大通りに出るまで私のことを送ってくれた。良いのにとは思ったが、帰り道のついで、と言うから感謝しつつ受け入れた。 「じゃあ、また」  そう言って、零は軽く小走りをして去っていく。若いなと思いつつ、私も振り返って帰路に着いた。  歩いていると、街灯や車のライトがやけに眩しく、人の声は嫌に耳に響く。さっきまで静かな場所にいたからだとは思うけど、それにしてもはっきりと伝わってきて変な感覚だった。  もしかしたら、あんなふうに初対面の人と二人きりになるのは久しぶりだった。そのせいか彼の行動に意識がいってしまって、終始落ち着かなかった気がする。  でも今の私は、悪くない気分だった。  疲れているのに、何だかすっきりしていた。  でも、先のことを考えるとモヤモヤしてしまう自分もいる。  来週の金曜日、恋岬神社でまた彼と会う。  つい勢いと好奇心で頷いてしまったけど、こういうのって後になってから、前日まで少し億劫になる。  でも、彼とまた会ってみたいという思いもたしか。複雑だ。  家について色々と寝る支度を済ませ、ベッドへとダイブする。このまま眠ってしまいたい。でもその前に、スマホだけは充電しないと。  私は机の方へと向かい、今朝にポイっと放った充電器をスマホに差す。  すると一つの物が目に入り、そっと手に取る。  木の柱に支えられ、その中心に浮かぶように佇むガラスには、微量の砂が溜まっている。ごく一般的な砂時計。  ただ一つ歪なのは、ガラス部分に亀裂が入っているということ。  だからもうひっくり返すことはできない、欠陥品。  時を刻めない砂時計。  それでも私は、かれこれ十年ほど部屋に飾っている。  引っ越すときは絶対に段ボールには入れない。しっかりと包装して、手で新幹線や車に乗る。  それくらい、私にとっては大切な宝物。  これを買ったのは小学生の頃だった。一目惚れして、なけなしのお小遣いで三十分を計れる砂時計を買った。一日に一回、ひっくり返してはじっと眺めていた。疲れているとか病んでいるとかではなく、ただその時間が好きだったんだと思う。  そう、大切なはずなのに、私はこの砂時計の時を止めてしまった。  崩れるように、私の手から零れ落ちた。  あの人のことが好きなんだと自覚し。  そして、私の前から姿を消した、あの日に。  もしかしたら私の恋心も、あの日一緒に、止まってしまったのかもしれない。  ため息を吐き、砂時計を机の上に戻す。そのままベッドに入って寝ようとした。でもいくら目を瞑っていても眠れなくて、私はスマホを取る。  フォルダから、今日撮った写真を見る。  たぶん、疲れているのに眠れないのは、零と出会って、いつもとは違った一日になったから。  素人のわりには、よく取れているなって思った。  元々写真は撮る方で――といっても風景や動物ばかりだけど――夜でもきれいに撮る方法は知っている。今のスマホは便利になったなと感心した瞬間だった。  猫たちがかわいく、つい口元が緩む。夜だから目はまん丸で、零の周りで各々くつろいでいる。夜行性だけど、そういえばずっと大人しかったなと思った。  その中心で、彼が微笑んでいる。  良い写真だなって思う。  これを描いたら、きっと……明日は、休みか。  私は起き上がり、机の中にあるスケッチブックとペンケースを取り出す。鉛筆の先はここに来る前から、描きやすく研いだままだった。  私は一年ぶりに鉛筆を手に取り、黒い鉛をキャンバスに走らせた。  けど、すぐに手が止まる。  カラン。  手が震えて、鉛筆がするりと落ちる。拾い上げると芯は砕けていて、ため息交じりにペンケースに戻した。  描きたいと思った。  本当、何年ぶりだろう。  だから、今ならいけるかもしれないと、淡い期待を抱いてしまったんだ。  でも、だめだった。  デザイナーになって停滞していた頃から、もう仕事以外では描けなくなっていて、後々、仕事ですらきつくなってしまった。  やめてからも段々と駄目になっていって、今みたいに、鉛筆や筆を持つことさえできない。  ベッドに仰向けで倒れ込み、左手で目元を覆う。妙に、額が冷たく感じる。  右手を天井目がけて広げ、力強く閉じる。その手を真っ直ぐ見て、瞼を閉じると、いっそう目の周りが熱くなる。とはいえもう、私の中はすっからかんで、何も零れ落ちてはくれないけど。  出てくれれば、いっそのこと楽なのに。何だか、笑えてくる。耳から入ってくるそれは、自分でも聞いていて気味が悪くて、すぐに口を閉ざした。  どうして、描けないんだろう。  やっと、描きたいと思えたのに。  恋岬神社に行って、彼といれば、また描けるようになるのかな。  そんなふうについ投げやりに考えてしまい、枕を抱きしめ、深く息を吐く。一瞬でも他人任せにしてしまった自分に、嫌気が差しつつ、しょうがないとも思っている私がいた。  なぜなら、私が本格的に絵を描こうと思った始まりは。  恋岬神社で、あの人に出会ったことがきっかけだったのだから。
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