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5. ……おい
はぁ……。とりあえず水分補給して、生き返った気分に浸る。
やっぱり、死んだ実感は全く湧かないな。でも足の指の間がマジで痛い。俺は足袋という、足の指先が2つに割れた靴を履いている。上棟の時は足の踏ん張りが効かないと危ないから、普通の靴は履かない。
その足袋で長い時間歩いたから、親指と人差し指の間がめちゃくちゃになっていた。
「ケンシロウ君は、町から来たんだよね?」
ダッジさんからの不意の質問に焦る。ドッキリ設定で話を適当に合わせた余韻が、俺の質問に対する反応を困らせた。
「あれ、頭混乱してついた嘘っす。気にしないで下さい。ほんとは気付いたら草原の中を歩いてたんすよ」
「あ、そうなの? あはは、そっかぁ!」
無邪気な笑顔を見せるダッジさん。普通なら初対面で会って間も無く、嘘ついたなんて言われたら引く。
33年生きてると、相手との少しの会話と表情で、大体の人物像が予測出来る。
……ダッジさん、あんた良い人だよ。富士山の湧き水くらい、澄んだ心持ってるんだと思う。マジで加齢臭が臭ぇけど。もしこの人が俺の世界にいたら、オレオレ詐欺に引っかかって3秒で全財産吹っ飛ばすな。
ダッジさんを見てそう感じる俺の心は……水道水。
「やっぱりほとんど記憶を失っているんだねぇ」
「そうなんすよ。これからどうしようかと……」
「町に行けば、何か思い出せるかな?」
「町っすか。ここからどれくらいの距離なんすか?」
「うーんと、徒歩で5時間くらいかな」
ヤバい、キレそう。車乗って事故れば良かった。
ん? ダッジさん町から5時間もかけて、廃材運んだんかい! ヤバすぎて笑えないなんて言って、ごめんなさい。
「とりあえず今日は遅いから、ここに泊まっていきなよ。明日、一緒に町へ行こう」
気付くと、野地板の隙間から刺す光が赤くなっていた。寂しさを感じさせる薄暗さ。
「ありがとうございます」
ダッジさんがテーブルの上にあるロウソクに火を付けようと、火打ち石を弾き出した。
「あ、ダッジさん。火ありますよ」
「うん?」
俺はおもむろに、ポケットから使い捨てライターを出してロウソクに火を灯す。暖色のほんわかした明かりが、ボロい小屋の中を優しく照らす。
それを見たダッジさんが仰天顔になった。
「な、なんだい!? それは!?」
おうふ。この世界にライターないのか。不便すぎる。どう説明すりゃいいんだ?
「なんでしょうねこれ。俺もよく覚えてないっす」
記憶喪失設定、神すぎる。
「ほぇ~。ちょっと見せてくれないか?」
ライターを手に取り、遠すぎだろって距離でまじまじと見るダッジさん。あ、老眼か。
その後、少し早いが夕食にすることになった。ダッジさんは、自分で育てた野菜や米などを食べてるらしい。自給自足する生活を送っていたらしく、たまに町へ出向いて野菜を販売していたようだ。
町では意外と野菜の評判が良く、完売で帰ってくるらしい。夕食はもちろんダッジさんの作った野菜。
大根、トマト、キュウリ、ナス……見たことない野菜がない。これは嬉しい。
野菜を桶に入った水で洗うダッジさん。
……おい。それ俺が飲みまくった水だろ。
自分を捨てきれてない俺はショックを隠せず、ただ項垂れた。そんな俺をよそに、テーブルに笑顔で皿に盛った野菜を置くダッジさん。
「どうぞ! 召し上がれ」
いや、めっちゃ生。切ってすらない。まぁご馳走になれるだけ死ぬほど有難いんだ。
「……いただきます」
トマトを手に取って一口食べてみる。ん? これトマトだよな? メロンじゃないよな? 甘い。酸味なんてゼロ。美味すぎる。
この世界のトマトの味なのか、ダッジさんの野菜がそうなのかわからない。それでも貪るように、トマトにかぶりついた。
「これも食べなよ」
ダッジさんがキュウリを俺に渡す。俺はなぜか涙が溢れてきた。見知らぬ世界で、色んな不安を抱えていた。
知っている人がいない。
知っている場所がない。
家族とまた会えるかわからない。
これから先、どうしたらいいのか……。
そんな中、ダッジさんの優しさが胸にしみる。氷が溶けていく感覚。俺は、泣きながら野菜を食べ続ける。ダッジさんは、そんな俺を優しく微笑んで見ていた。
全ての野菜を食べ終えた俺は外に出てみると、もう陽は完全に沈んで夜になっていた。満天の星が輝く夜空を見上げながら、タバコに火をつけた。
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