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1.死後の世界なんて、ほんとにあったのね
「よし、弊串付けたら帰るぞ」
俺は弊串を持って棟に上がった。弊串とは、工事の安全を祈願して飾る串のこと。上棟(柱を建てて骨組みを組むこと)すると最後、棟(家の中で1番高い部材)に取り付ける。
7年間も大工として仕事をしていると、新築を何棟建てたかなんて、もう覚えていない。幣串の取り付けも同じことだった。
今日の上棟はお施主さん(家の持ち主)にとっては、一生に一度あるかないかの記念日。でも俺にとっては何度も経験してきたことで、正直特別感はなかった。
俺は慣れた足取りで棟の上を歩き、幣串を釘で打って取り付ける。
「棟梁さん、よくあんな高いところ平気で歩けますね……」
俺を下から見上げるお施主さん。隣には、応援で来ていた淳(28歳)がいた。
淳は、昔同じ工務店で働いていた後輩。先に独立した俺の現場へ、手伝いに来てもらっていた。
「俺らは普段から慣れてますから」
「へぇ~。僕は高いところ苦手なんで無理ですね」
「いや、俺らも最初は足がすくみましたよ。それでモタモタしてて、よく親方に怒鳴られたんすよ」
お施主さんと淳が話していると何かが堕ちたような、大きな音が聞こえた。
「なんだ!? あれ!? 賢志郎さんは!?」
俺は棟から足を踏み外して落下し、2階床に倒れていた。普通は棟から2階へ堕ちても、足から着地して骨折くらいで済む。そこを運悪く棟に足が引っ掛かり、反転して頭から堕ちた。
完全に油断していた。
部材を連結する「かすがい」と呼ばれる金物がある。それを取り付け忘れている箇所に目を奪われ、棟の上で足を踏み外した。
後頭部が生ぬるい。たぶん血だろうな……。聴力検査の様な耳鳴りが、ずっと頭から離れない。夕陽に染まる空を見ながら、意識が遠くなっていく……。
目を覚ますと、雲一つない青い空が広がっていた。ぼんやりとしてた視界が徐々に、はっきりとしてくる。
仰向けの上体をゆっくり起こすと、見渡す限り続く美しい草原の中だった。
これは俺絶対死んだな。間違いなく死んだ。ここが病院ならまだしも、こんな草原で目を覚ますとか、まずあり得ねぇ。さしずめ死後の世界ってとこか……。
死後の世界なんて、ほんとにあったのね……。
俺は、自分が死んだということ受け入れ、あぐらで座ったまま思いを巡らせた。こうやって死んでも、生きていた時のように考えられることはありがたいと思った。
妻の有加(35歳)と息子の直樹(2歳)が今日も、いつも通り俺の帰りを待っているんだろうな。
玄関の扉を開けると、その音に気付いて走り寄ってくる直樹は「おかえり」ではなく「おあえい」と言う。足元に抱きついてくるのが、たまらなく愛おしかった。
家に帰るといつも、有加が作る夕飯のいい匂いが漂っていた。優しい笑顔で迎え入れてくれる有加。結婚して4年の間、全ての夕飯が超絶美味かった。
もう「おあえい」を聞くことも、有加が作るあったかい夕飯も食えないのか。
俺が死んだと知ったら、悲しんで泣いてくれるのかな。なんで最後が喧嘩別れなんだろう。くだらないことだったのに……。すぐ謝れば良かった。
上棟前日の夜。俺は有加と喧嘩していた。
トイレのフタを閉めるうんぬんの、大したことのない喧嘩。ズボラな俺がいつも閉め忘れることに、育児で疲れた有加がキツい言い方をしてきたので、言い返してしまった。
はぁ……。まさか今日死ぬとは。しかも安全祈願の幣串を付けた直後に。お施主さんも嫌だろ。楽しみにしてた自分の家で人が死ぬなんて。最悪だわ。
俺は自分の家も、最近新築で建てた。1か月しか住んでないんですけど。
新築したローンは、団体信用保険という制度で、ローンを組んだ俺が死亡するとチャラになる。残された遺族はローンを払わなくて済む。死亡保険も、3千万円貰えるはず。
有加は出産前までシステムエンジニアをしていたから、職場復帰すれば1人でも稼げる……何とかなるだろ。直樹は俺のこと、ほとんど記憶に残らず育つのかな……。かなり虚しい。
家族を持つと、こういう心配をするもんなんだな。俺はしばらくボーとした後、よっこいしょと立ち上がった。
「えーと……どうすりゃいいんだ?」
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