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最終話
牧野さんは、クローンだった。本当の彼女は、家で寝たままの状態だ。本物の牧野さんとクローンは入れ替わり、今はクローンが牧野さんとして生きていることになる。このまま本物が衰えて死ねば、本物の牧野さんは完全に存在を消して、偽物が本物として生きることになる。おかしい。不気味だ。こういうことがあるから、きっとクローンは厳禁なのだろう。
そして、僕は気づいた。
僕と僕のクローンは、いずれ彼女の中で入れ替わるのだ。水の中でしか長く生きられない僕は彼女とは会えなくなり、彼女は僕のクローンで研究を繰り返し、もう一人の僕を陸で生きさせる。そのうちに彼女はクローンに情が移るだろう。人間なんて、そばにいた者の勝ちだ。どんなに同一人物といっても、二人存在していて、それぞれの環境が違えば、少しずつ違う人になっていく。僕の知らない僕が、陸で育っていく。僕は二人になる。牧野さんは優秀な研究者だ。いつかはもう一人の僕を実験台にした研究で名を挙げるかもしれない。そのとき、実験台となる『僕』は、注目を浴びる可能性がある。同じ顔、同じ耳、同じ遺伝子の人間が存在することを知られたら。クローン技術は完ぺきすぎて、時間が経つとどちらが本物であるかを判別する研究がまだ進んでいない。そのうち僕らは入れ替わってしまう。そして、もしかしたら、僕がクローンであると見なされて、処分されてしまうかもしれない。
そんな人生は、絶対に嫌だ。僕は僕だ。僕は一人しかいない。この世に僕は一人だけだ。僕というアイデンティティは、この世にたったひとつだけだ。
そして、牧野さんのアイデンティティもまた、ひとつだ。それは僕の好きな牧野さんではなく、家で脳死状態にある牧野さん固有のものなのだ。
僕が好きな牧野さん。好きだった牧野さん。アニメ声がかわいい牧野さん。偽物だったなんて。
牧野さんに、一言だけメッセージを送る。「通報する」と。
即刻、メッセージの返事がきた。僕はその内容を確認することもなく、水陸公安警察に電話をした。
『陸日本、東京、東京大学大学院研究員の牧野和美、女性30歳による犯罪発覚。水日本、深水大学大学院研究員である内田孝、男性32歳のクローンを無断で作成。牧野自身は彼女の父が作成したクローンである』
公安のAIが『了解、自宅にて待機せよ』との電子音を送ってくると同時に、僕は電話を切った。
さよなら、牧野さん。君が好きだった。好きな人を公安に通報することになるなんて。
僕は立ちすくんでいたキャンパスの中で、ぼんやりと水面を見上げた。太陽の光が注ぎ込み、大学の時計台を照らしていた。その光景は、まるで安田講堂の空のようだった。僕が牧野さんにプロポーズした、あの日のように。
さよなら、牧野さん。もう二度と、会えない。
【完】
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