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「ちょっと話があるの。仕事が終わったらうちに来て」
と里帆からメッセージがあったので僕は仕事を早めに切り上げた。
定時で上がる僕のことを不思議そうに眺める同僚の視線を後に僕はオフィスから去る。大学の近くに住んでいる里帆の家に向かうため、僕は電車を使うことにした。
「ただいま」
一言、いつものようにそう言った。
「おかえり」
と返す里帆の顔はわかりやすく曇っていた。目線はにっこりとしているが、頬が固くひきつっているのがわかってしまう。玄関で僕の様子を窺いじっとしている里帆を横切り、僕は上着をクローゼットにしまった。そのまま僕はリビングに腰掛ける。僕が座ったのを見て、里帆もちょこんと目の前に座った。
何か話があるのは事前に知っていたがきっとこれは嬉しい話ではないだろうと僕は悟った。悲しそうに、申し訳なさそうにただじっと座っている里帆が大きな部屋の空気を押しつぶしていたからだ。部屋の中が重たい。一人暮らしにしては大きい10畳ほどの部屋が狭く感じる。まるで里帆自身が大きな惑星になってしまったようだ。乾いた空気と緊張感からか僕は喉が渇いた。
「コーヒー淹れるけど飲む?」
そう僕が尋ねると黙って里帆はうなずいたのでポッドに多めに水を注ぎお湯を沸かした。
じゅごーと音を立ててポッドが湯を沸かす音が聞こえる。それほどこの部屋は静かだった。僕はあぐらを組み替えたりしながら時間が経つのを待った。することもないので部屋をじっくりと眺めてみた。本棚には僕が勧めた文庫本がぎっしり入っていて、勉強机の上には二人でいったテーマパークの写真が置かれていた。この部屋は僕と里帆だけで作り上げてきた空間だった。それがいつからこんな重苦しくなってしまったのかは覚えていない。ひときしり部屋を眺め終わったと同時にお湯が沸いた。そのまま僕は二杯分のコーヒーを用意した。
僕がコーヒーに口を付けたかと思うと里帆はぽつぽつと僕たちの馴れ初めを語りだした。私たちの最初の出会いはマッチングアプリだったね。だとか。
多くを語らない龍くんが周りの大学生とは違って見えて素敵だったとか。
今までの生活が過去だったかのように里帆は淡々と話し続ける。
僕はそれを黙って聞いていた。
ひときしり僕たちの思い出を喋り切ったと思ったら急に里帆は黙ってしまった。部屋には酸化したコーヒーの匂いが充満しきっている。
言葉を選んでいたかのような沈黙が終わったと思ったらそのまま里帆は
「ずっと過ごしているうちに龍くんのことがわからなくなってきた。」
と言った。そのまま里帆は続ける。
「ごめん、私もう龍くんとは付き合えない。」
喉から搾りだすような低い声で里帆はそういった。それ以降、里帆は何も言わなかった。
僕はただひたすらに時計の秒針と心臓の鼓動の音だけを感じていた。僕はただ目線を机の下に落とすことしかできなかった。
ふと目線を上げると里帆と目があった。その目を見て僕は何を言っても手遅れだと悟った。僕の放つ言葉は全て里帆の覚悟によって潰されてしまうようにしか思えなかった。喉の奥でつっかえている「どうして」も。お腹のそこで気持ち悪く渦巻いている「別れたくない」も。全部が冷たい塩水に晒されてしまったようだ。さび付いてひしゃげている言葉が意味もなく頭の中で繰り返されている。里帆の目はいったいどこを見ているのだろう。少なくとも僕たちの未来のことを見ていないことだけは確かだった。少しの光も反射せず、真っ黒になった瞳を見続けていたら僕は息ができなくなる。身動きが取れなくなる。静かに、ゆっくりと僕は里帆の瞳に潜む海に溺れていく。
「そうか」
どうにか言葉にできたその一言だけ返すと里帆は今までため込んできた重圧を放出するかのように号泣し始めた。どうか責めないで。と身を削りながら泣く里帆の姿を見ると何も言えなかった。僕は立ち上がり
「それじゃあね。」
と一言残し部屋を去った。
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