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エピソード1 中田 洋平
テーラー河喜多の主人、河喜多六三郎が店の棚にはたきを掛けていると、ドアの傍に置かれたクッションで丸くなっていた猫のクロード・モネが頭をもたげて言った。
「誰か来る」
河喜多六三郎はドアに填められたガラスを見やり
「誰が来る? 普通の客か?」
と猫に尋ねる。
「四十代半ば、男、くたびれたスーツにくたびれた鞄。でも普通の客じゃないね。あれだよ。思い出を売りにきたんだよ」
「ほう」
六三郎はちょっと頬を緩ませた。
「そういう客は久しぶりだね。さて、楽しませてくれるかな」
クロード・モネはクッションから飛び降りると
「僕、ちょっと着替えてくる」
と言って奥に入っていった。そして三秒のちには、再び出てくる。白に近い金髪のおかっぱ頭、ブルーアイで、水色のペイズリー柄のベストと青いオー・ド・ショースの半ズボンを履いた十歳くらいの少年として。
まもなく件の客が訪れる。ドアに取り付けられたベルを鳴らして。
くたびれたスーツにくたびれた鞄。すり減った靴底。営業マンかなにかかな、と六三郎は推測する。客は六三郎に軽く頭を下げ、所在なさそうに店内を見て回る。
名刺入れを手にしては戻し、ネクタイをちらっと持ち上げては戻し。興味のない商品を見て回るふりをする客は多い。思い出を売りに来たなんて、そうそう言い出せるものではないのだ。
六三郎とクロード・モネのほうは、先刻から承知しているのだけど。
「なにかお探しですか?」
クロード・モネが声をかけると、男は大変驚いて
「君は日本語が話せるのか」
と言った。
「日本に住んで長いもので」
クロード・モネは感じのいい笑みで返したが、内心は焦れているのを六三郎は見抜いている。まったく、クロード・モネはせっかちだな、などと思っている。
仕方ないなあ、と思いながら
「なにかお困りごとがおありですかな」
と、六三郎は客に話しかけた。外国の男の子の恰好をしているクロード・モネよりは、白髪の老人である六三郎のほうが話しやすいだろうと思ってだ。
男は、すべてを見抜かれているのかとでも思ったようにたじろいで、一、二歩後ろに下がったが
「は、はい。実は大変困っておりまして……」
と、両手を身体の前で合わせた。
「差支えなければ、お話を伺わせてもらえますかな」
六三郎は店の隅に置いてある木のテーブルセットの椅子に腰かけ、もうひとつの椅子を客に勧めた。テーブルには、白地に青の模様の八角形の陶器が一面に貼られている。
男は背を丸め、鞄を両の腕で抱きかかえるようにして椅子に座った。不安なのか、落ち着きのない素振りである。
六三郎はクロード・モネに、温かいお茶をお出しするように言いつけた。紅茶が運ばれてきたので、男は一口飲んだが、そのまま年代物のカップを手のひらで抱いて黙っている。
クロード・モネは、裏口の桟にもたれかかり、聞き耳を立てている。男が話し始めるまでに、六三郎は随分待った。
「あの、この店は、なかったことにしてくれる店だって聞いて来たんですけど……」
男はようやく口を開いた。
六三郎はにっこり微笑み
「『なかったこと』ですか。まあ、ちょっと違いますが、そういうような商売もやっております」
と答えた。
「え、なかったことになるんじゃないんですか? 困ったな。なかったことにならないと、僕は大変に困ってしまうんです」
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