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男はひどく狼狽した。クロード・モネが面白がっているのを背中で感じながら、六三郎は優しく言う。
「『なかったこと』にはなりませんが、似たような結果になります。情報をお持ちのようだからしゃべりますが、私はひとの記憶を消すことができるのです。あなたの消したい過去の記憶も、その過去を共有した人間の記憶も」
「ああ、よかったあ」
男は安堵のあまり、大きくため息をつく。
「それなら問題ないです。記憶がなければいいんだから。記憶がなければ、僕の失敗も帳消しだ」
男は打って変わって、強気になったようである。クロード・モネが笑いを堪えている。六三郎は、ごほんとひとつ、咳払いをする。
「あなたの消したい過去の記憶について伺う前に、システムをご説明しないといけないですね。料金体系、つまり対価です」
六三郎は整然として言った。
「はい。それについても、なんとなく知っています」
男は答える。
「ほう。どのようにお聞きですか?」
六三郎は尋ねる。男はしどろもどろに
「えっと、代わりに思い出を差し上げればいいのだと聞きました」
と答えた。
「その通りです。しかし」
六三郎は男に顔を近づけて言った。
「ただの思い出じゃだめですよ。消してもらいたい過去の記憶と釣り合うだけの素敵な思い出でなければ」
「は、はあ。それについてはちょっと自信がないんだけど……」
男は視線を下げかけたが、自分を見てにやついているクロード・モネに気づいて、はっと見る。クロード・モネはしまったとばかりに視線を反らし、背も反らした。
「なにか、思い出にアクセスできるようなものはお持ちですかな。写真でも、思い出の品でもなんでもよいのですが」
六三郎は気を取り直して尋ねる。
「は、はい。一応、写真を持ってきたのですが」
男はごちゃごちゃの鞄を引っ掻き回した挙句、一枚の古い写真を取り出した。自転車に乗る小さな女の子と、その後ろをついて走っているのは若き日の男のように見える。
「娘の美奈が初めて補助輪なしで自転車に乗れた瞬間です。妻が写真を撮ってくれていました。妻は美奈が結婚するときに持たせるのだと言って、写真を撮ってはプリントアウトしてアルバムにしているんです。こんなんじゃ、だめでしょうか……」
男は自信なさげだが、六三郎はなかなかいい思い出だと思った。
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