エピソード1 中田 洋平

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 中田が出て行ってしまうと、ショウウインドウの内側から見える空は茜の色に染まっていた。レモン色の雲が、一日の最後の輝きを放っている。 「ちょっと早いけど、そろそろ店じまいしようか、クロード・モネ」  六三郎が声を掛けると 「思い出を味わうのが楽しみなだけでしょう? 儲かりませんね、この店は」  と、クロード・モネが答えた。  クロード・モネはしばらく少年の姿のままで過ごすことに決めているようである。どんな姿にでもなれるが、少年の姿はこの店に似合っていると六三郎は思っている。 「それにしても笑いすぎだぞ、お前は」  さっきの態度を思い出して六三郎が叱ると、クロード・モネは手を頭の後ろで組んで、いたずらっぽく笑っている。  六三郎は店のカーテンを閉め、ドアの外の看板をCLOSEDにひっくり返し、鍵を閉めた。クロード・モネは、紅茶のカップとソーサーを片づけ、ばらばらになった先ほどのろうそくの乗った銀のお盆を店の奥に下げる。  六三郎は大事そうに写真を手にし、店の電気を消して奥の部屋に入ると、そこからまた鍵を開けて左側のドアを開けた。ドアの向こうは六三郎とクロード・モネの居室である。 「さてと。酒のあてはなんにするか」  六三郎は呟いた。  そういえば、いただきもののいいソーセージがあったんだった。それとカマンベールチーズとプチトマト、それにたけのこ、これを桜のチップで燻製にするか。六三郎は燻製器の底に桜のチップを敷き、調理皿に材料を載せて、蓋をして火に掛けた。  その後ろを割りばしをくわえ、両手でカップラーメンを持ったクロード・モネが通りかかる。 「またカップラーメンなのか。健康にも少しは気を使いなさい」  六三郎が言うと、箸をくわえたままのクロード・モネはもごもごとなにか言ったが、六三郎には「お互いさま」と言ったのだとはっきりわかる。  カットグラスに丸くて大きい氷とウイスキー、出来上がった燻製をローテーブルに並べて、六三郎はソファに座る。燻された桜チップのよい香りがしている。  目の前には布張りのスクリーン。クロード・モネはカップラーメンを食べ終わり、猫の姿に戻っていた。ソファに座らず、その隣の床に置かれたクッションに寝そべっている。クロード・モネの隣には、彼のお気に入りのマチルダという猫のぬいぐるみがある。 「さてと。始めますかな」  六三郎はテーブルに置かれた写真に火を付け、大きめの灰皿に燃えている写真を入れた。  するとスクリーンに写真の映像が映し出される。まるで映写機で映したかのようなメランコリックな世界のなかで、娘の自転車が走り出す。後ろを支えていた中田が手をそっと放す。    アングルが変わり、中田目線になる。前を行く娘の自転車は、危なっかしくも少しずつ自力で遠ざかっていく。娘は後ろを振り返る。その拍子にバランスを崩して、横に倒れた。中田が駆け寄ってゆく。妻も駆け寄ってゆく。 六三郎はその映像を、ウイスキーを吞みながら何度も何度も繰り返し観る。 「いい思い出だね」  クロード・モネが言う。 「ああ、いい思い出だ」  六三郎が低くつぶやく。 「だけどさ。言ってあげなくてよかったの? あのひとに」 「なにを?」  六三郎は前を向いたまま尋ねる。 「悪い記憶が消えても、悪い感情は消えてないかもしれないこと。地主さん、禿げのことは忘れても、まだあのひとに嫌な感情を抱いてるかもしれないよ?」  六三郎はプチトマトをつまんだ。 「それはそれさ。あの男がなんとかしなければならないことだ。それに、あのひとはなんとかできると思うよ。きっとね」 「ふうん」  クロード・モネはにやにやと笑った。  こうしてテーラー河喜多の夜は更けてゆく。誰も知らない、けれど特別な時間が、この場所にだけあるのだ。  消したい過去の記憶がある方は、ぜひテーラー河喜多へ。消したい記憶と釣り合うだけの、素敵な思い出をお持ちになることをお忘れなく。 ~To be continued~
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