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【もや恋4】アラフォーですが、バレンタインときめいていいですか
アラフォーって、何歳からそう言うんだっけ。四捨五入して40歳なら、私がそうだわ、半年前に36歳になったから。ええ、お陰さまで健康だし、順調に出世しています。同期の女性の中では唯一の係長よ、独身だけどね。彼氏もいないけどね。
取引先の営業さんと、パワーランチを終えた13時前。トイレの鏡の前では、ふわふわした女の子たちが鈴なりで化粧直しに励んでいる。私が近づくとそのすき間がモーセの海割りのように広がった。別に怯える必要はない。眉間にしわが出ているのは、機嫌が悪いのではなくモニタが見えにくくなってきたからだ。そろそろPCメガネが必要かもしれない。
そろそろと言えば、このグロスも似合わなくなってきたな。3本リピートしたお気に入りだったんだけど、顔色がくすんで見える。実際、くすんでいるのだろう。先日、BAさんに薦められて買った濃い目のローズレッドが、まさかのドンピシャで戸惑ったが、そういう年代なのだ。もうシアーなピンクベージュが映える肌ではない。
「係長、お疲れさまです。見積書のチェックお願いします」
席に戻ると、部下の杉田くんが書類を持ってきた。私には5人の部下がおり、杉田くんはチームリーダーで30歳。リーダー経験者はほとんどが、昇進試験を受けて係長へとステップアップする。私もそうだった。杉田くんもきっと数年後には役職がついているだろう。
「これ、急ぎの分かな?」
「明後日の午後に訪問なので、明日中くらいで大丈夫です」
はきはきと明るい杉田くんは、イケメンではないが人好きのするさっぱり系の好男子だ。高校時代は野球部だったせいか、年寄りのおっさん連中からも「礼儀正しい」と評判が良い。たぶん間もなくやって来るバレンタインデーには、本気チョコで想いを伝えるべく、チャンスを狙っている女性社員も多いだろう。
何を隠そう、私もその一人である。ただし、脳内に限る。とてもじゃないが、肌のくすんだアラフォー管理職が、社内で人気のある6歳も年下の部下に突撃するわけにはいかない。パワハラとセクハラの合わせ技で訴えられてしまう。
彼のような男子は、ひっそりと愛でるだけでいいのだ。見た目も性格もストライクだが、うっかり勘違いして傷つかないように、遠くから見守るように心がけている。私は数字が並んだエクセルのシートを繰りながら、過ぎ去った懐かしい日々を思い出していた。
私には、5年間お付き合いをした恋人がいた。彼はこの会社の3年先輩で、23歳から28歳までを共に過ごした。夏休みには一緒に海外旅行に行ったし、お互いの家族にも紹介した。そのうち、結婚するのだと思っていた。しかし、彼はそうではなかった。
「すまない、別れてくれないか」
そう言われたときは聞き間違いかと思ったが、彼は頭を下げている。何か私が嫌なことをしただろうか。それとも他に好きな人ができたのか。気が動転して何も言えない私に、彼は別れの理由を淡々と語った。
当時、私はリーダー、彼は係長をめざして昇進試験を受けていた。残念ながら私は昇進できなかったが、彼は目出たく係長になった。そして同時に海外赴任の辞令が下りた。期間は3年から5年。本社に戻ってくれば、課長のポストが用意されているという。
それを聞いたとき、もしかしたらプロポーズされるのではと期待した。付き合いが長かったし、28歳と31歳で二人ともいい年である。しかし彼は別れを選んだ。私が総合職として昇進を目指していることを、彼はよく知っていた。もしも結婚して海外へ連れて行けば、そこでキャリアが途絶えてしまう。
かと言って、何年も待たせるのは、私の年齢的にも忍びない。何より、専業主婦の母親に育てられた彼にとっては、妻が家を守り手料理で出迎えてくれるのが「理想の家庭」なのだそうだ。無理だね、私と真逆じゃないか。
いざ海外赴任が決まって私との結婚が現実味を帯びた時、「これじゃない」と思ったのだろう。もっと早く気づけばよかったね。そうしたら、お互い20代をもっと相応しい相手に捧げられたのに。
「そういうことなら、仕方ないね」
別に、待つのは構わなかった。しかし、彼の望むような妻にはなれそうにない。恋人としては、こんなに気が合う人はいないと思っていたのに。恋愛と結婚は別というのは、こういうことなんだな。引き留めても仕方ないと思ったので、私は別れに応じた。あれからもう8年も経つ。
彼と別れてからは、今まで以上に仕事人間になった。翌年にはリーダーになり、一昨年からは係長である。彼と別れた直後は、社内であれこれ噂する人も多かったが、今はもう過去の干からびた思い出となっている。
ちなみに彼は、4年後に戻って来て課長になった。部署は違うがたまに姿を見かけることがある。今でこそ何とも思わないが、失恋から立ち直るまでには長い時間が必要だった。特に、一年ほど経ってようやく痛みが消えかけたころ、海外にいる彼が結婚したのはショックだった。上司の娘さんとお見合いだったそうだが、自分の欠陥部分を再認識させられたようで、惨めで寂しくて仕方なかった。
それでも、また恋ができるんじゃないか、ありのままの自分を受け入れてくれる人がいるんじゃないかと、淡い期待を抱いて何人かの人と付き合った。しかしそのたびに夢は打ち砕かれ、結局は仕事に縋ってしまった。お陰で、同期の出世頭だ。たぶん周りのみんなは「あいつは一生結婚しない」と思っているだろう。私も最近はそう思う。
そんな枯れ果てた私を潤してくれる、一服の清涼剤が杉田くんである。同じチームになってからは3年くらいだが、部署が同じなので入社以来なにかと面倒を見てきた。実は彼とは2回、デートしたことがある。杉田ファンが聞いたらうらやましがるだろうな。一回目は路地裏の串焼き屋さんだった。
杉田くんが大きな目標を達成した日。「お祝いしてくださいよ」とねだられて、彼の行きつけの店で乾杯した。他のメンバーは生憎みんな忙しかったので、その日は二人きりだった。
「何が嬉しいって、達成したより美人と飲めるのが嬉しいです」
「おっと、口がうまいね、出世するよ!」
大いに食べて飲んで、ガハハと笑って楽しかった。帰り際、お勘定をしようと思ったら、お店の人に「もう頂いてます」と言われたのには、びっくりしたけれど。
「自分から誘っておいて、行きつけの店で奢らせるなんて、俺の美学に反します」
なんて、6歳も年下の男の子(私から見れば)に言われて、しっかりしてるなぁと感心した。それからだろうか、彼のことを特別枠として意識するようになったのは。あくまでも、若いって眩しいな。私にもあんな頃があったよな、というカテゴリーではあったけれど。
二回目のデートは、なんとお泊りコース。と言っても、別に色気のある話ではなく、二人で出張からの帰社途中、台風による大雨暴風警報に巻き込まれてしまったのだ。電車が運休になり、私たちは大雨の中コンビニでお泊りグッズを買って、駅前のビジネスホテルに泊まることにした。
その夜は、杉田くんとホテル併設の居酒屋で食事して、自販機のコーヒーを飲みながらお喋りしただけだが、それがやたらに楽しかった。さらには、翌朝の朝食バイキングで、トレーに取ったおかずが8割くらいかぶっていて、大笑いしながら納豆をかき混ぜた。杉田くんと私はいつもそんな、笑いのあるシチュエーションにいるような気がする。
数日後、女子ロッカールームはバレンタインデーの話題で盛り上がっていた。あと数日で彼女たちにとっては決戦の日である。私には縁のないイベントだが、聞く気がなくてもうわさ話が耳に入ってくる。
「高科さんさぁ、杉田さんダメだったみたいだよ」
杉田くんの名前が聞こえてドキッとした。高科さんとは、確か営業推進部の美人さんだ。推定25歳くらい、細身で色白。モテるだろうなぁという見本のような人だが、その高科さんと杉田くんがどうしたんだ。鼓膜をピクピクさせながら、私は話の続きに集中した。
「断られたんだって、14日は予定があるからって」
「彼女かな」
「そうじゃない? でも、教えてくれなかったみたいよ。笑ってごまかされたって」
頭の中で「チーン」と終了の鐘が鳴った。そうか、彼女いるのか。そりゃいるだろうね、いい男だもの。まあ、どうせ私は眺めて楽しむだけだから関係ないが、それでも一抹の寂寥感を覚えるのは、あれかな? ファンが推しの熱愛報道にエーッていう感じかな?
通勤用のペリーコを社内用の5cmヒールに履き替え、私は仕事の待つデスクへ向かった。またいつものように、怱怱たる一日が始まる。女であることを放棄したわけではないが、愛だの恋だの不確かなものよりも、モニタに流れる数字のほうが、今の私にはリアルに受け入れやすい、それだけのことだ。
そうしているうちに、14日になった。時間は午後7時半である。この、ほとんどの女性社員が退社し、フロアにはサービス残業の男性社員が何人かと私だけ、という絶妙な時間に杉田くんが帰社した。
「あれ、直帰じゃなかったの」
「いえ、7時帰社予定でしたよ。ちょっと納期の件で話が長引きました」
私が勝手に「杉田くんは今日デートだから、さっさと帰る」と思い込んでいたらしい。仕事熱心だな、でも早く帰んなさい、そう言おうとしたら杉田くんからお誘いがきた。
「頑張ったんでくたびれました。飯、付き合ってください」
「へっ」
間抜けな声が出た。いや、あなたは行くところがあるのでは? どう答えようか「へ」の口のまま固まっていたら、杉田くんがしょんぼりと眉毛を下げた。
「あ、もしかして何か用事あります?」
「いやいや、杉田くんこそ。だって今日は、ほら」
「なんもないっす。じゃあ、決まり。何か食いに行きましょう」
意外とグイグイくる杉田くんに圧倒されているうち、私はお好み焼き屋の鉄板前に座っていた。お洒落なレストランはカップルで満席だろうから、庶民的な店がいいとリクエストしたのだ。
ネクタイを外してシャツ一枚になった杉田くんが、ミックスモダンを焼いてくれている。まくり上げた袖からのぞく腕は、さすが元野球部。程よく筋肉がついてセクシーだ。いかん、眼福すぎてニヤけてしまう。
「俺、料理けっこう得意です」
そう言うだけあって、杉田くんが焼いたお好み焼きは大変美味で、お腹いっぱい食べてビールも程よく飲んで、何だか楽しくなったので「二軒目行きましょう」というお誘いにも、ほいほい乗ってしまった。
杉田くんに連れてこられたのは、繁華街からちょっと離れた小さなバー。ほの暗い照明と、白髪のマスターがいい雰囲気だ。杉田くん、こんな渋い店を知っているんだな。急に彼が大人の男に思えてきた。30歳だから大人ではあるんだけれど、新人時代から知っているので、どうも調子が狂う。
お互いに最初の一杯を飲み干し、さて何か次のものをと思ったとき、杉田くんがカウンターのマスターに声をかけた。
「マスター、あれをお願いします」
マスターはおもむろに頷き、シェーカーを振り出した。細いステムのグラス二つにサーヴされたのは、ココア色のカクテル。薄いクリームのトッピングの上に、小さなミントの葉が飾られている。
「ショコラ・マティーニです」
なんでこれが出て来たのかわからず固まっている私に、杉田くんがカクテルの名前を教えてくれた。「そうなんだ」と無難に答えると、しびれを切らしたように「ああ、もう」という声が聞こえた。
「今日は何の日ですか、これ、逆チョコです」
待て待て待て待て、頼む、考えが追い付かないからちょっと待って。いま杉田くんは「逆チョコ」と言ったが、それって好きな子に男子からチョコあげるんだよね? なんで私に? 戸惑いが顔に出ていたのだろう、杉田くんは困ったなという表情をしている。
「俺、けっこうわかりやすくアプローチしてたつもりなんですけど、係長ちっとも気がついてくれないから、体当たりすることにしました。」
「……ええっ」
今日は「へ」と「え」しか言っていない気がする。それくらい予想外のことが起きているのだ。もしや罰ゲームとも思ったが、杉田くんはそういうことをする人間ではない。
「いや、でも、杉田くん、今日は彼女と約束あるって――」
あ、言っちゃった、と思ったけどもう遅い。杉田くんはちょっと考えて「なるほど」というような顔をした。
「高科さんから聞きました? 確かに今日は用事があるって言いました。絶対に係長を誘おうと思ってましたから。なのに打ち合わせが長びいて。退社してたらどうしようって焦りましたよ」
「ちょっと待って、あの、私が6歳年上ってわかってるよね? しかもあなたの上司だよ」
「わかってますよ。6歳なんて、お互い30代なんだし誤差みたいなもんでしょう。それより俺たち、気が合うじゃないですか。話すと楽しいし食い物の好みも合うし。そっちの方が大事ですって」
杉田くんが、自分のグラスを手に持った。ショートカクテルだから、早めに飲んだ方がいいんだよね。それはわかるが、飲んだらチョコを受け取ったことになるのかな。
「藤崎課長のことも、知ってます。馬鹿だな、こんないい女を手放すなんて」
その名を聞いてこわばった。藤崎課長とは、元彼の名前だ。
「俺なら上司も交えてうまく話し合いします。ていうか、そんなに何年も付き合う前に結婚してました。ねえ係長、そろそろ乾杯しませんか。別にこれ飲んだらオーケーの意味、なんて押し切りませんから」
私はそろそろと指を伸ばし、カクテルのグラスを手に取った。こんな夢のような展開になるのなら、ネイルサロンに行っておくんだった。服にも気合を入れてくるんだった。嗚呼。
「俺は係長の仕事への姿勢とか、部下に対する思いやりとかを見て、人間として尊敬してます。でも、それ以上に、たまに見せる女性の部分がかわいいと思ってます。大好きです」
杉田くんが、グラスを合わせて「乾杯」と言った。チリンとクリスタルの触れ合う音が響く。実は私、あなたを密かに愛でていたのよと言ったら、どんな顔をするだろうか。教えてやらないけどね。
「返事は急ぎません。こういう男が、すぐそばにいるってことを、ぜひ覚えておいてください」
私はグラスの縁にそっと唇を寄せた。逆チョコカクテルは、甘くてちょっとほろ苦い。恋を忘れて久しいアラフォーだけど、ときめいちゃっていいですか。
運命の分かれ道には、標識がない。この恋の行方は見当もつかないが、杉田くんと一緒なら、なんとかなるんじゃないか。そんな予感がしているのは、聖ヴァレンタインの魔法だろうか。
完
♡……今回は糖度高めです……♡
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