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旅の一行
ケイマストラ王国の王都フランシアは、渓谷の底に突き出た島の上に建てられた街だ。
令嬢たちには、初めての町並みを抜けると、門の外には、川の上を行く橋のような自然の道があり、ここはその幅の制限があって、擦れ違うことは危険を伴う。
今日の道のりでは、最初の難関と言っていい。
これがあるから、この旅で選ばれた客車の幅は、抑えられているのだ。
もちろん、ここばかりのことではない。
「隊列を離したくないので、あちらとこちらで、通行を調整します」
カタリナたちが乗る馬車に同乗する女騎士のワティナが、そのように話してくれた。
興味深く、窓の外を見ると、こちら側は、行き違う相手を見る方ではなく、渓谷の底を覗き込む方だった。
「初めて、見ます…」
胸の冷える思いがする。
以前に、カタリナがここを通ったときは、気付かなかった。
たぶん、窓の大きさの違いが、景観の凄絶さに、迫力の差を生んでいるのだ。
アルシュファイド王国で作られたと言う客車は、ケイマストラ王国では存在しない形状で、硝子ではない透明の素材の窓の板が大きく、外に出なくとも、景色を広く知ることができる。
「こんな景色…」
「恐ろしいほどですね…」
ぽつりと呟くのは、向かいに座る令嬢エシェルだ。
いくらか、顔が青褪めているように見える。
「大丈夫?」
「あ、ええ。大丈夫ですわ。こんなところで、気後れしては、いられません」
カタリナは、ちょっと微笑んで見せた。
「先は長いわ。強がりは無しよ。そうだわ、これからのことを考えましょうよ。見たところ、この馬車、驚くほど振動が少ないわ。これなら、動いていても、移動できそうよ」
馬車内に視線を向けるので、釣られて、ほかの年の近い令嬢も、恐ろしい光景から視線を離した。
「頼むから、無理なことを、ご令嬢に要求しないでくれ、カタリナ。怪我をされては、こんなところでは、引き返させられるよ」
隣に座る、兄リーヴの言葉に、カタリナは、ちょっと胸を反らした。
「ま!お兄様!ずいぶんな仰り様ですね!引き返したくないのは分かりますけれど!」
「だから、引き返したくはないだろうと言っている」
カタリナは、自分の至らなさの指摘だったかと、少し胸が冷えたが、こんな旅の始まりの時に、大目に見て欲しいものだという、思いの方が、強かった。
「ひどいです、お兄様。恐ろしい光景から気を逸らそうとしただけなのです。わたくしだって、恐ろしかった!」
よよ、と泣き真似をして、ちろりと兄を見ると、笑っている。
「わかった、わかった。錯乱の結果だな」
「そっ、そこまでは、ありませんわ!」
こんな会話は滅多にないなと思っていると、軽く笑う声がした。
「ふふっ!それはそうと、確かに、ほかの、ご令嬢とも、わたくしたち、まだ、ご挨拶できていません。席を替える機会は、いつ頃あるでしょうか」
リーヴの婚約者ケイトリーの言葉に、話を切り換える機会を得て、カタリナは、身を乗り出した。
「それです!そこに持っていきたかったのです!お兄様、いつ頃ですか?」
「うーん。まあ、昼には、一旦、休むとしても、その前にも、何度か休むのだろうから、しかし、そこの崖は登り切ってしまわないと」
この客車に限らず、順調に進む一行は、既に先の方で、崖に穿たれた坂道を上がり始めている。
「道があるのですか?ああ、あの馬車は、待っていてくださったのでしょう…ね。止められているようです」
ケイトリーの言葉を聞きながら、視線を追うと、なるほど、通常の荷馬車と擦れ違うが、あちらは停止中だ。
「橋の手前で、止められていましたわ。騎士様方は、置いていかれてしまわないでしょうか」
「大丈夫だろう、馬での移動なら、すぐに追い付く」
「ああ、なるほど…」
話しているうちに、橋の出入り口に当たる広場を抜けて、坂道を上がるようだ。
「こちらも、なかなかに擦れ違いが難しそうです…」
「そうだな。もしかして、度々、止まらなければならないかもしれない」
リーヴはそう言ったが、停まって待機、と言うほどの時間はなく、滞りの無い道のりだった。
崖を上り切ると、馬に小休止を取るということで、少しの間、停車することになった。
「それほど長い時間ではないですから、席の移動程度に止めるといいでしょう」
ワティナが言っていると、少女騎士マーゴが来て、数名、少しだけ、外に出てみませんかと言った。
「赤璋騎士のご提案です。崖の上から、王都をご覧にならないかと」
「見ますわ!」
「かなり衝撃を受けると思いますので、エシェル様は、そのままに。男性と、王女殿下と、ケイトリー様は、ご覧になるとよいかと思います。ほかのご令嬢は、どうぞ、お戻りになるときが良いでしょうから、時間の猶予もありませんし、お待ちいただけますか」
そのように忠告されて、令嬢たちは遠慮し、同乗していたカタリナの侍女アナミリアは、崖下を覗き込まない位置から、カタリナの様子を見ているようにと、止められた。
もうひとつの客車からは、妹ハシアと、カタリナの友人の令嬢テリーゼも出てきて、揃って崖下を覗き込み、同時に息を呑む。
「なんと、恐ろしい…」
呟きに、はっと我に返って振り向くと、テリーゼは気丈にも、カタリナの視線を受けて、微笑んだ。
「驚いてしまいました」
「当然よ。離れましょう。ハシア、ケイトリー」
何が恐ろしいのかと言えば、断崖の険しさは、下から見上げるそれとは違い、確かに、王都の地形の危うさを実感させた。
何より、カタリナに恐ろしかったのは、あの、崖崩れが起きれば、一瞬で呑み込まれてしまいそうな王都に、生きた人が多数居るという、現実だった。
いつの間にか、近くに来ていた、赤璋騎士アルが言った。
「今すぐ、どうこうしろとは言わねえが、お前たちは、目を瞑っていていい立場では、ないだろうからな。留学する前に、自分が何のために学ぶか、考えてみるといい」
そう言って、青褪めたハシアの頭に手を置くと、乗車を促した。
席に戻ると、少し位置替えをして、向かい合ったリーヴが、大丈夫かいと聞いた。
「強がりは無しだ。気分が悪ければ、寝椅子に行くといい」
寝椅子は、車窓側に向いている席なので、外の様子も見られるが、それを窓布で隠すこともできる。
「あ、いいえ、そこまででは。ケイトリー?」
「大丈夫です。わたくし、なんだか、感動してしまいました」
頬を染めて、ケイトリーは、窓の外の景色を見る。
「うつくしい街でした。あれが、わたくしたちの住んでいた街なのですね。わたくしが、いずれ守らなければならない、ひとびと」
胸に当てた手を、強く押して、そしてケイトリーは、カタリナに笑顔を向けた。
「ありがとう存じます、王女殿下。あのとき、カタリナ様の、お言葉が無ければ、私はただ、景色を見ているだけでした」
いつの言葉のことか、カタリナには判らなかったが、ケイトリーの話の続きを聞きたかった。
「まだまだ、至らぬ、わたくしですけれど、努めたいと思います。なんのために学ぶのか、まだ、はっきりとは申せませんけれど、気持ちが、強くて」
ケイトリーは、動き出す景色を横に、一瞬だけ視線を伏せ、まっすぐにカタリナを見た。
「とても、素敵な気持ちです…!とても、楽しみです…!」
それは、なんだか、励まされる声だった。
強い気持ちを分けてもらった、そんな気がした。
カタリナは、自然と口の端が笑うのを感じた。
「そうね。とても楽しみだわ…!」
そう、始まったばかりの旅。
楽しみは、無限に広がる…!
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