序章 ― 朝陽に溶けて ―

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 それはきっと、誰もが目を奪われずにはいられない光景。  それなのに、目の前にいる彼――フィルグラートは、ただの一瞬も湖を見てはいなかった。  彼が見ていたのはひたすらに、エルミラだけ――。  エルミラはようやく顔をフィルグラートへと戻し、弱々しく微笑んだ。 「見ていて……これが、この五年間の私……よ」  軽く両手を広げる。  フィルグラートの蒼い瞳が大きく見開かれた。驚愕の色がそこに貼りついて固まった。  こめかみに汗が浮き、たらりと落ちていく。唇が何かを言いたそうに動くのに、そこから言葉が生まれることはない。  そんな彼の視線を全身に受けながら。  エルミラはいつもの感覚に身を預けた。長く続く不摂生のために細く青白くなった彼女の体が、その輪郭が、降り注ぐ光の中、細かく弾ける泡となる。指の先、足の先、癖のある赤みがかった金の髪の先から始まり、輪郭という輪郭が連鎖するように弾けて消えていく。  彼女の〝形〟が、空気に溶けて見えなくなってゆく。 「エルミラ!」  フィルグラートが大声をあげて手を伸ばした。  はっきりとエルミラの胸元まで到達していながら、しかし彼女を掴むことのできないその手を間近で見て、エルミラは思う。――ああ、この手も大きくなったのね、フィン……。  彼女の脳裏に五年前の記憶が蘇った。どこかやんちゃでもあった凜々しい少年が、いつになく優しい手つきでエルミラの手を取ったときのことを。  胸に突き刺すような痛みが走った。  あまりにも虚しい問いが、エルミラの意識をかすめていく。  もしもあのとき、彼の手を握り返すことができていたなら……こんなことにはならなかったのだろうか、と――。
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