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睡蓮琴音の話
一歩ずつ階段を登る。この町では有名なビル。私、睡蓮琴音は半ば諦めながらこのビルに来た。若者がビルに来る理由はおそらくただ一つ。それは自殺するため。屋上へ上がる階段を登り切り、ドアに手を掛ける。ここから飛び降りたら、私は死ねるかな。
私には再生能力がある。自殺の原因も、わざわざビルに来たのも、この再生能力のせい。リストカットしても肉は再生する。手を切り落としてもすぐに生えてくる。首吊りは苦しいらしいし、自殺の方法が思いつかなかった。
初めて再生能力がわかったのは四歳の時。保育園で友だちと遊んでいる時に尖った石で手を切った。私の指はスパッと切れた後、とたんにくっつき始めた。友だちは怖がって逃げていった。友だちは先生にも言ったけれど、先生は子供の冗談だと思って相手にしなかった。でも、私は確かに分かった。自分の傷が塞がったことを。そして、友だちの目には恐怖の色が浮かんでいたことを。
それから小学校、中学校、高校と、私はできる限り目立たないように生活した。いつも怪我をしないように細心の注意を払った。体育の授業の時、刃物を使う時、ひたすら目立たないようにした。もし私の能力がバレたら、怖がられることは目に見えていた。それどころか、もし大人に知られたら。四歳児ではない中高生が言うことだ、大人も信じるだろう。もし自分の能力が社会に知られたら、自分はどうなってしまうのだろう。ただひたすら隠れることしかできなかった。
もちろん私は遊びの誘いなども全て断っていた。外では何があるか分からない。高校時代はそれでなんとか乗り切ることができた。友達なんて一人もいなかったし、クラスメイトと話すことすら出来なかった。全ての事を断り続けた私は、誰からも話し掛けられなかった。私はそれでも耐えられた。自分の忌わしい能力がみんなに知られるよりはよかった。
しかし、大学で私の人生は一変した。大学になると怪我をするような授業がなくなった。人と関わるようになった。大学になって分かったのは、自分が男性に好かれるタイプだと言う事。高校時代全く人と関わらなかった私は、いつしか明るい人間へと変わっていった。
「やっと人生を楽しむことができる。」そう思っていた。
それでも私の人間恐怖症は所々でその顔を覗かせた。
初めて付き合った彼の家に行った時、私は彼と料理をすることになった。手を切らないように必死に練習したため、料理をするにはなんの問題もないはずだった。それでも、彼と二人でキッチンに立つと恐怖が込み上げてきた。咄嗟に言葉が出なくなった。怖くなって私は家から飛び出してしまった。そんなことが何度か続いて、またみんな私と関わらなくなった。
それどころか、男性からは気を引きたいだけの面倒臭い奴と思われ、女性からは男性に人気のある目障りな奴と思われ、次第に私は無視されるようになった。また私は社会から断絶された。
私の自殺への欲求はどんどん高まっていった。高校時代は一人でも平気だった。それでも一度人と関わる事を知った私には、もうあの生活に戻ることが耐えられなかった。
でも、リストカットが私にとって意味のないことだってことはわかってた。私はまた自分の再生能力を恨んだ。自分は死ぬことすらできないのか。私には逃げ場がなかった。
それでも私には一人だけ友達がいた。彼女は私の唯一の話し相手だった。みんなが私から離れていく中、彼女だけは私と話してくれた。彼女は私と世界を繋ぎ止める最後の存在だった。
それなのに、彼女も私を裏切った。彼女が片想いしていた人がわたしのことを好きになった。偶然彼女のSNSの裏垢を見つけてしまった。
「まじなにあの女、絶対私のことを馬鹿にしてる。」
「私が彼のこと好きだと知ってるくせに。」
「自分が人気あるからって調子乗ってる。」
「あいつと一緒にいれば、彼から話し掛けられるかもしれないから、仲良くしてるだけ。」
「早く消えてくれないかな。」
直接私の名前は出していないものの、私とわかる特徴がいくつも書かれていた。
私は結局社会から排除されるべき存在なんだ。そう思うと世界が一気にどうでも良くなった。思考することすら面倒臭くなった。生きる、いや存在する意味が分からなくなった。一気に自殺への衝動が湧き上がってきた。自分の心はもう既にコントロールできなくなっていた。
私は吸い寄せられるようにビルへと向かった。本当に死ぬなら、飛び降りくらいしないと死ねないことは分かっていた。目に映る世界全てが、くすんだコンクリートみたいな色をしていた。今どんなに綺麗な景色を見ても、なにも感じないだろう。どんなに美味しいものを食べても、何も味がしないだろう。誰と話しても、なにを話しても、もう私の目には光が灯ることはないだろう。
私の人生はなんだったのだろう。私はなんのために生まれたのだろう。思考はどんどん負のスパイラルに嵌っていった。もうなにも感じられなく、なにも考えられない状態で、私は階段を登っていた。
「屋上から下を見たらなにか心が動くかな。」
そう思っていたのに、下を覗いても心は一切揺らがなかった。
私の濁りきった心とは対照的に、夕焼けがきらきら輝いていた。
カチャリ。突然扉の開く音が聞こえた。誰かが屋上に来た。私は扉の方を見た。そこには、一人の青年がいた。偶然にも私が知っている人だった。私が一方的に。
彼は私と同じマンションに住んでいる。なぜか彼は私と同じような空気感を持っていた。人を避けている感じがした。人を怖がる目をしていた。気になって調べてみた。彼は人食症だった。
「人食症」
私と同じように世界から断絶された存在、社会の理から外れた存在だった。私は彼に興味があった。彼は何を考えて生きているのか。彼の生きる目的はどこにあるのか知りたかった。
でもその時はまだ、私とは一切関係のない存在だった。
だから、彼が突然屋上にやってきたときは本当に驚いた。でも彼の目を見たとき、私は彼のその目にに今の私と同じ物を感じた。その時の彼の目は、前みたいに人を恐れている目じゃなくて、何かを諦めたような、決意を固めた目をしていた。たぶん彼も自殺しようとしているんだな、そう思うと私は彼との出会いに運命を感じた。
彼とだったら完璧な関係になれるかも。彼にどんなふうに思われても、私は彼を救いたかった。それよりも自分を救いたかった。生きる意味が欲しかった。
「私を食べて。」
私は言葉が思いつかず、咄嗟にそう言った。彼はとても戸惑っていた。当たり前だろう。彼は私のことを知らないはずだ。それでも私は彼を引き止める必要があった。別に他の感情なんて必要なかった。ただ私を受け入れてくれる存在が欲しかった。私を必要としてくれる人がいてほしかった。
「君はまだ世界から捨てられていない。」
そう言ってほしかった。
彼はこんな私を受け入れてくれた。そうして私と彼、世界から断絶された二人の生活が始まった。
それでも「私は自分のために彼のことを利用しているだけかもしれない。」その思いは心の片隅にひそかに残っていた。
その日の夜、私は彼の家に行った。彼の家は大学生の一人暮らしとは思えないほどきれいだった。自殺するために掃除したのだろうか。彼について知りたいことは山ほどあった。伝えたいことも。
とりあえず私は自己紹介をした。自分に再生能力があること、自分の好きなこと、大学のこと、最低限のことは伝えられた。彼の自己紹介はもっと簡潔で、つまらなかった。ただただ必要なことを言っただけ。もう少し教えてほしかった。わかったのは彼の名前と年齢だけ。彼の名前は宮食蓮。私と同い年だった。
私が「蓮くん。」と呼ぶと彼はとても戸惑っていた。それで彼が無口な理由がわかった。女性に慣れていないのだろう。
「女の子に慣れてないの?」
私が揶揄うようにそう聞くと、彼はまた困った顔をした。少しの間静かな時間が流れた。
彼が突然「なんで僕に声をかけたの?」と聞いてきた。
私は動揺した。私が生きる目的を作るために、彼を利用したことがバレた気がした。私は咄嗟に嘘をついた。
「私にはリストカットの癖があるの。切断した後の処理が大変だから。」
リストカットなんてほとんどやってなかった。大して意味がないと分かってたから。それでも彼に怪しまれる訳にはいかなかった。彼に避けられる訳にはいかなかった。
「私は自己中心的だな。」
また私の心に小さな棘が残った。
それから一週間、私の生活は一気に変わった。彼もだんだん私に慣れてきて、少しずつ会話してくれるようになった。
夜ご飯は毎日彼が作ってくれる。
買い物にも行ってくれる。
「自分は琴音さんの肉を食べるから申し訳ない。」
彼はそう言って料理を作ってくれる。彼の料理はとっても美味しい。私がご飯を食べている間ずっと正面で私を見ている。私が「美味しい。」というと、彼は嬉しそうに笑ってくれる。
私が夜ご飯を食べ終わったあとに、彼は私の肉を食べる。私は彼の前でも構わず服を脱ぐ。彼は困った顔をして、私に「気をつけた方がいい。」と忠告してくれる。脱がないと切れないから当たり前だと思ってた。でも、彼が私のことを気遣ってくれて嬉しかった。
私が肉を切り終わると、私はそれを丁寧にお皿に乗せる。彼はフォークとナイフを使って綺麗に食べる。彼が「いただきます。」と言うと私は嬉しくなる。「必要とされている。」と実感することができる。彼は私の生きる理由だ。彼がいるから私は生きている。彼は私と世界を繋ぎ止める唯一の命綱だ。
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