睡蓮琴音の話 (初デート)

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睡蓮琴音の話 (初デート)

 一緒に暮らし始めて一か月私と彼の関係はほとんど変わらなかった。私のことを「琴音」と呼ぶようになったくらい。 もちろん彼はずっと優しいままだった。いつも私のことを気遣ってくれる。でも彼は私に恋愛感情を抱いていない。 私は高望みはしない。身の程はわきまえている。今生きていること、必要とされていること、それだけで十分幸せ。 それなのになぜ少しさみしくなるのだろう。 彼に近づきたくなるのはなぜだろう。 こんなに人間関係で苦労したのに。 こんなに裏切られてきたのに。 彼との変わらない関係を私はなぜ拒むのだろう。 そこで分かった。私は初めて本当に人を好きになったんだ。  今までの私の恋愛は、別にその人のことが好きだった訳ではない。 ただ純粋に話しかけられて嬉しかった。 自分に興味を持ってもらえて嬉しかった。 変わっていく自分が嬉しかった。 私はそれを恋と勘違いした。これまで人と関わってこなかった私は無知だった。舞い上がっていた。そんな関係が長く続くはずがなかった。彼らが優しかったのは初めのうちだけだった。  彼に惹かれているのは彼が優しいからだけじゃない。彼の目は彼の魂で満ちている。それはあの日、ビルの屋上で会った時もそう。自殺しようとしているはずなのに、諦めた目をしてるのに、彼の目には魂がこもっていた。意志がこもっていた。彼は私と違い、自分の意志だけで自殺を決めたのだろう。 他人に流されている私とは違う。私はいつも他人のことばかり考えてる。 そんな彼の強さに憧れた。彼みたいな人間になりたかった。  ある日の昼過ぎ、彼は突然私をデートに誘ってくれた。私はとても驚いた。これまでそんなそぶりは微塵も見せなかったから。理由は何にせよ嬉しかった。彼は私に興味がないと思ってた。 嬉しい気持ちを抑え私は揶揄うように了承した。そうしないと照れちゃいそうだった。彼は準備をするために実家に帰った。どんな準備をしてくるのだろう。 「明日が楽しみだ。」  初めてのデートの日、彼はいろんな努力をしてくれた。私の好きな水族館を選んでくれた。私は約束の駅に5分前に着いた。彼はもうそこにいた。いつもの彼の服装からは想像つかないほどおしゃれな彼がそこにいた。彼はとても緊張していた。私も結構緊張していた。 私はテンションが上がって変なこと言ったかもしれないけど、彼は笑ってくれた。私もそれにつられ笑う。普通のカップルみたいで嬉しかった。当たり前じゃない私たちの存在、当たり前じゃないわたしたちの関係の中で、当たり前の幸せを感じられる。本当に彼に感謝してる。  昼ごはんは彼が調べてくれたお店に行った。私はパクチーのサンドイッチ、彼は普通のBLTサンドイッチを頼んだ。あまりにありきたりな彼の注文に私が突っ込むと、彼は「琴音はどんどん挑戦しそうだよね。」と言ってくれた。私は胸が苦しくなった。私は本当はそんな人間じゃない。そんな人間のふりをしているだけ。他人に怖がられないように、他人に避けられないように。私は嘘で塗り固められている。  彼にはもちろん怖がられたくなかった。嫌われたくなかった。でもそれよりも、私の本当の姿を知って欲しかった。人が怖くて、いつも閉じこもっていた私。誰とも関わらず、社会から断絶された私。 彼はどんな私でも避けないでいてくれる。そう信じている。私は勇気を振り絞って彼に聞いた。 「蓮くんは私のことどう思ってる?」 素直に最も知りたいことだった。再生能力のある人間としての私。睡蓮琴音としての私。 彼は少し考えた後に真剣な顔で答えた。 「僕にとって必要な人かな。いろんな意味で。そしてとても魅力的な人だと思う。」 嬉しかった。彼は今の私のことを受け入れてくれている。だからこそ、彼だからこそ、私の他の面も知って欲しかった。 「蓮くんはどんな私でも受け入れてくれる?」 私の心からの質問だった。彼はまた少し考えた後笑って言った。 「僕はどんな琴音でも受け入れるよ。」 ただただ嬉しかった。 「僕が人食症で琴音が再生能力を持つからだけじゃない。」 そう言ってくれたことがもっと嬉しかった。私たちは普通の関係として成立している。私は今普通の人間として必要とされている。普通の人間として受け入れられてる。それこそ普通じゃない私がずっと追い求めてきたものだった。 「やっぱりあの日、彼と出会えたのは運命だった。」  その後私たちは水族館に戻った。私がイルカショーが見たいと言ったから。周りには私たちと同じようなカップルがたくさんいた。周りから見たら私たちも普通のカップルに見えているのだろうか。それが嬉しかった。そう思えることが嬉しかった。 「蓮くんもそう思ってたらいいな。」  私たちは二人でいつもの家に帰った。今日は本当に楽しかった。彼が私を受け入れてくれていることも分かった。嬉しかった。 「でも多分今日はこれで終わりじゃない。」 そう思った。理由は分からない。昨日の夜、彼からデートに誘われた時から私たちの関係が変わる兆しを感じていた。全く確証のない直感。 その直感は正しかった。 彼は真剣な目で私を見つめて言った。 「今日の昼言ったこと覚えてる?僕は琴音のことを必要だと思ってる。僕たちの出会いのきっかけは人食症と再生能力だったけど、今はそんなこと関係ない。僕は琴音のことが好き。琴音は僕を救ってくれた。それは人食症の僕だけじゃなくて、宮食蓮としての僕も。だから僕と付き合ってくれないかな?」 「嬉しい」そんな陳腐な言葉じゃ表しきれないほど私の心は幸せに満ちていた。間違いなく人生で最も幸せな瞬間だった。 私も初めて彼に気持ちを伝えた。 「私、初めて人を好きになったと思う。これまでも彼氏はいたけど、今までの恋愛は恋愛じゃない。他の人に告白されてもこんなに嬉しくならなかった。こんなにドキドキしなかった。確信を持って言える。私は蓮くんのことが好き。」 彼は私をギュッと抱きしめた。私も彼を抱きしめた。人の暖かさが心地よかった。それから私たちはキスをした。私が照れ隠しのために彼を揶揄うと、彼も照れた感じでまた私を強く抱きしめた。時間がとてもゆっくり流れていた。部屋はほのかに甘酸っぱい匂いがした。
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