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過去挿話 —夜の街—
あれは確か、マーカスが女神の予言書により選ばれた日の夜だったと思う。
その時私は人気のない夜の街並みを歩いていた。
寝静まった街は静かで、空気は冷たく月が眩しく美しかった。
世界は美しいのに現実は残酷で、私は心の折り合いを見つける事ができずに途方に暮れていた。
予言の書に選ばれた人間が、まだ年端もいかない少年だった事のショックから、未だ立ち直れずにいた。
天空の島に力技で侵入してきたジーク達から、魔王を討取る為に力を貸して欲しいと言われた時、私たち天使は思わず失笑した。
人間が非力である事は十分に知っていたし、魔王は私たち天使種族よりも遥かに強大な力を持っている事は考えるまでもない事実だった。
ジーク達の背後には大国のブラウディアン王国があり、現在も打倒魔王を目指し近隣国と同盟を結びながら兵力拡大を行なっているというが、だから何なのだ。
私たちは波打ち際の浜辺にどれほど深く絵を描いても、波が寄せればいずれ無になる事を知っている。
それと同様であるほど、魔王の力は絶対的なのだ。
「シルヴィ」
物思いに耽っていると、不意に声をかけられた。
立ち並ぶ家々の狭い路地は真っ暗闇で、明るい月の光も差し込まない。そこから闇を割るようにぬっと現れたのはジークだった。
立派な体格と存在感を持つ男が、何故こうも見事に気配を消せるのかいつも不思議に思う。
「やぁ、良い夜だな。あなたも散歩か?」
私の名前を勝手に省略して呼ぶ男は、何も答えぬまま了承も得ずに私の隣を歩き出した。
「眠れないのか」
低い、静かな声音だった。何の感慨もない、普段と変わらぬトーンである事に、私は何故か苛立ちを感じだ。
「あの少年は、以前私たちを匿ってくれた少年だった」
苛立ちに背を押されるようにして飛び出た言葉は唐突だったが、ジークはその話題が出る事が分かっていたかのように動じなかった。
「ジーク、あなたも覚えていただろう。妖魔と繋がっている商人から私たちを庇ってくれた少年だ」
以前から私たちは隠密に、妖魔と裏で繋がっている商人の親元を探っていた。
そしてあと少しという所で罠にかかり、全てがおじゃんになりかけたところを助けてくれたのがマーカス・アーサーという少年だった。
聞けばまだ12歳だという。彼は一人で旅をしながら、生き別れた弟を探していた。
「女神の予言の書に選ばれたのは、あの時の少年だった」
事実を伝えただけなのに、自分でも驚くほど声が震えた。ジークが少し驚くように片眉を上げたのが視界の端に見えた。
「彼はまだ12歳だと言っていた」
「そうだな」
「……そうだな?」
動揺のかけらもない相槌に、思わず繰り返す。
隣を歩くジークを仰ぎ見ると、月の光がジークの顔に影を落としていたが、表情を読むのに苦労する程ではなかった。
読んだ彼の表情は普段と変わらず、とても落ち着いていた。
「あんな幼い人間が、魔王を倒す旅に出なければならないんだぞ? それなのに、そうだな? あなたの感想はそれだけなのか?」
あまりに幼い者が予言の書に選ばれたショックは、怒りの感情となって吹き出しそうだった。
「今日の式典を見ていたのか? あんな大勢の前で唐突に選ばれ、これから凄まじい数の人間の期待を背負う事になるんだ。魔王の力は私たち天使でさえ太刀打ちできないのに、どうしてあんなに小さな者に魔王討伐の重圧を与える事ができる?!」
「静かにしろ、夜中だ」
私の問いに等答える必要がないと言わんばかりに、周囲を顎でしゃくって見せる。その姿に私は強い失望を覚える。
「他人の睡眠は考慮してやるのに、あの子の人生は考えてやらないのか?」
ジークは決して冷たい人間ではないと私は信じていた。
天空の島で、人類を救いたいと堂々と告げた彼の目には、燃え上がる魂の輝きがあった。彼は騎士隊長という役職柄、理性的で冷静な判断能力を待っているが、厳しさと優しさを持ち合わせていた。
だから私は期待していたのかもしれない。あんなに小さな人間を魔王の前に立たせようとする現状に憤りを見せてくれる事を。
ジークは立ち止まり、私たちは向かい合わせになった。
「あんたは何も分かっていない」
熱のない、とても冷たい声だった。
「博愛はあんた達天使の本能なのか? それともあんただけが強すぎるのか?」
それは単身で天空の島から離れた私への皮肉だったのだろうか。人に紛れる為に隠した翼を、ジークは透かして見ているようだった。
「俺たちの目的が何なのか、あんたは本当に理解してるのか? 目的は魔王を倒す事だ。魔王を倒さない限り人類に未来はない。
子供を犠牲にするなとあんたは憤ってるな。だが忘れるなよ。魔王を倒さない限り、子供なんざ幾らでも死ぬ。赤子も子供も年齢性別関係なく全員が死ぬ」
ジークの凪いだような目の奥に、天空の島で見た魂が燃えている。それは全てに対する覚悟の炎だった。
「ああそうだな。これから確実に一人の子供が地獄を見るだろうな。だがそれが何だ? その子供が魔王を倒せる力を秘めていると言うなら、俺は迷わずそいつを地獄に突き落とす。それが人類の助かる道なら、俺はやる」
そして共に地獄を歩くのだ。
ジークは天空の島に来るよりもずっと前から覚悟を決めて生きているのだ。彼から見れば、結局のところ私は他人事でしかないと思われているのかもしれない。
時空の狭間を漂う天空の島は、魔王から姿をくらます事も可能であり、天使は究極のところ魔王を脅威とは思っていないのだから。
けれど私はもう天空の島へ帰る事はできない。それはジーク達には告げてはいない事実だった。
人間と運命を共にする覚悟で私は天空の島を離れた。
けれど、私はまだ本当のところで彼らを理解していないのかもしれない。
ジークがこれ程の覚悟を決めているにも関わらず、私はあの少年が不憫でならないのだ。
ふと、私を真っ直ぐに貫いていたジークの苛烈な魂の輝きが緩み、どこか戸惑ったような色に変わる。
少し困ったようにジークが告げた。
「そうか。あんた、悲しいのか」
このショックと怒りが悲しみであるという事に、私は指摘されて初めて気付いたのだった。
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