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未来への分岐路
「シルヴィー、気が付いた? 翼の痛みはどう? 少しはマシになってる?」
マーカスが気遣わしげに垂れた私の翼を撫ぜる。
さっきまで見ていた夢と現実が入り混じり、マーカスが突然成長したかのような錯覚を受ける。
もう初めて出会ってから3年になるのだ。幼いばかりと思っていた彼も、こうして改めてみると大人の男へと確実に成長しているのを感じ、感慨深い気持ちになる。
そこでふと我に返り、私は自分で歩いているのではなく、誰かに背負われている事に気付いた。
「えっ、あ? なんで?」
ペタリと頬をくっつけていた首筋から慌てて上半身を離そうとすると、一斉に動くなと止められた。
「天使、倒れる前に言うたじゃろう。翼は糊でくっついてるようなもんじゃと。下手に動くとまた剥がれ落ちるぞい」
ぞっとするような事を平気な顔で告げ、ルーは目にかかった私の前髪を優しく払う。その指先の優しさに目を細めながら、随分懐かしい夢を見ていたのだと知る。
あの頃の私たちは、魔王を倒すこの日を渇望していた。予言の書に選ばれた事で、マーカスはあの日から凄まじいまでの辛酸を舐めて過ごしてきた。
それがこうして全て報われたのだ。
「マーカス。君は必ず幸せになれ」
多幸感に目尻が濡れる。
「シルヴィーはいつもそればっかりだね」
マーカスが笑うとソーニャが彼の頬をつついた。
「何言ってるのよ、みんながそう思ってるわ。マーカス、これからはちゃんと自分の為に幸せになるのよ? ねぇ、ジーク。ジークもそう思うでしょ?」
「そうだな」
頬を預けた首筋から、低い声が響いてきてビクリとする。
「マーカス、幸せになれ」
ジークが発したとは思えない、驚くほど明るい声だった。
あの日、マーカスを地獄に突き落とすと言い切ったジークが、これほど明るい声でマーカスの幸せを願っている。
今日、苦しみから解放されたのはマーカスだけではない。ジークも。ジークだってだ。
「ん? おい、シルヴィ」
私を背負っていたのはジークで、私は我慢できず力一杯に彼の首に両腕を回した。
「……、首が冷たい。おい、どうした。傷が痛むのか? ルーじいさん、傷口どうなってる? みてやってくれ」
あなたの事が大好きだと思った。
冷静さと燃え盛る情熱を持ち合わせ、誰よりも自分自身に厳しかったジークは、履き違えた甘さが迷惑だと私を軽蔑している。
私がジークを好きだなど、彼からすれば迷惑な話に違いない。
けれどこの澄み渡った空が一生忘れられないように、私は今日のジークの声を忘れる事はないだろう。
「幸せになってくれ」
「ん? ふふ、何だまだ言ってるのか? そうだな。俺もそう思う」
勘違いしたジークの優しい相槌が、より一層涙を溢れさせる。
「ええと。あー、ええと。マーカス、マーカスはこれからどうするの?」
あくまでワザとらしくないように、わざとらしくないように。
そんな前置きが聞こえてきそうな程のぎこちなさで、アーニャが尋ねた。
アーニャは由緒正しき精霊使いの家柄で、このまま故郷に帰れば家督を継承する事になるだろう。以前までの彼女はそれを当然の事として受け入れていたが、世界を知った今では抵抗を覚えるようになっていた。
そして、彼女はマーカスと離れたくないと思っている。
魔王が存在した頃に、倒した先を考えられる者等そういなかった。生き残れるかも分からないのだから。
どうして良いか分からず、未来への無数の分岐路にまごつく気持ちは痛い程に理解できた。
「そうだなぁ。まずはブラウディアン王国に戻って、弟の容態が落ち着くのを待つよ。僕たちの故郷はもうないし、弟が回復してからどうするかを決めようかな」
「そうじゃの、魔王がいなくなった事で、弟君の症状も少しは落ち着いて回復して行くじゃろう。国王の指示で高位の治療師も側におる。悪いようにはならんよ」
ルーがマーカスが不安にならないようにと、明るい未来を指し示す。
マーカスの生き別れの弟エイジアは、マーカスが予言の書に選ばれた後、魔王軍によって捉えられていた。
私たちがエイジアを見つける事が出来たのは、本当に偶然の産物でしかなかった。その時にはエイジアは勇者の肉親として様々な呪いをかけられ、心身ともにズタボロになり、ただ息をしているから生きていると分かるような有様だった。
「そうだよね。もしエイジアが回復して動けるようになったら旅をしようかな。今度は離れないで、一緒に世界を見て回るのもいいな」
マーカスが嬉しそうに未来に思いを馳せる。15の少年とは思えない程老熟した眼差しは、彼のこれまでの苦難を物語っているかのようだった。
「そう、それって、すごく素敵」
「アーニャも一緒に行こう」
切なそうに呟いたアーニャに、マーカスが間髪入れずに提案した。
「アーニャもさ、もっと気楽に色々見て回れたらなってずっと言ってたじゃん。それでエイジアにアーニャの精霊見せてやってよ。あいつ絶対喜ぶからさ!」
彼女は美しい娘だが、その時見せた笑顔は誰もが見惚れるような美しさだったと思う。
現に美醜に一段と無頓着なマーカスでさえ、驚きに息を飲むほどだった。
「ええ……、ええ、いいわ。私エイジアのために特別に光の精霊を呼んであげる!」
「えっ! そんな攻撃力の高い精霊じゃなくていいんだよ?! 森の精霊とか、水のウィンディーネとか」
「なによ、エイジアは初めて精霊見るんでしょ。なら一番呼ぶのが難しい精霊を見せてあげるわよ!」
大いに盛り上がりだした若者に、ルーが嬉しげにウンウンと首を振る。
「これぞこの年代の若者の会話じゃな。こんな光景を生きたまま見る事が出来て、ワシは本当に価値のある人生を歩ませてもらっていると感じておる」
ルーは凄腕の国選魔術師だが、旅に出る前は孫と二人で暮らしていた。
彼はもう二度と帰ってこられないだろうと覚悟を決め、愛する孫に別れを告げて旅に出たのだ。
他に身寄りもいない、まだ年若い孫を置いて死の旅路を歩む決意は、どれ程のものだっただろう。けれど彼は決して自分の悲しみや迷いを口にする事はなく、常に最年長として私たちを見守って来てくれていた。
「ルー、あなたも家に帰れますね」
「そうじゃな。孫はワシの顔を忘れてしまってるかも知れんが、成長した姿を一目見なければワシは死ねん」
「ははは、忘れられててショック死するなよ、グッ!」
ジークの茶々に、間髪入れずルーの拳が脇腹を刺す。恐ろしい事にこの老人は魔術以外にも武道も達人という超人なのだ。
「仕様もない事を言うから……」
ゲボゲホと咳き込む振動を全身で感じながら、ルーに対してはどこか子供っぽいジークに呆れてしまう。
一通り咽せ切るのをゆさゆさと揺られながら待っていると、ジークがポツリと呟いた。
「で?」
「え?」
「お前はどうする」
「どうする……」
自分のことなのに、私は今の今まで今後の事をこれっぽっちも考えていなかった。
どこか呆然とした気持ちで鸚鵡返すと、ジークは気まずそうに頷いた。
「天空の島には、戻れないだろう」
私が仲間の元へ帰れない事実を、ジークは既に知っている。
旅の途中、天使が奴隷として闇市場で捌かれていると噂を聞いて、盗賊の住処に潜入した事があった。
天使は種族的に絶対的数が少なく、天空の島を出る事が基本ないので見つかれば高値で取引される。
その闇市で取引されていた天使は一人で、そして長い年月囚われ続けていた。
彼は様々な箇所を切り売りされており、外見だけでは天使なのか人間なのか妖魔なのかさえも分からなくなる程凄惨なものだった。
私が彼の呼びかけに応じた時には、彼の精神は崩壊しきっていた。
天使は仲間意識が強い。それは希少な種族を守るための本能だ。多少異端な性質を持つ私だとしても、本能に逆らう事は出来ない。
彼の崩壊しきった姿と精神は仲間の私を無意識に求め、激しく受け入れ同調するよう求めてきた。
その結果、私は本能に逆らいきれず彼を受け入れ、彼の意識に飲まれるようにして、精神を崩してしまったのだった。
次に私が気付いた時には全てが終わっていた。
天使の売買には妖魔も関わっていたらしく、それらの討伐も既にジーク達が片をつけた後だった。
切り売りされ精神を崩壊させた天使は、最後に妖魔に食べられてしまったらしい。しかしその妖魔もジークが一人で討伐したとの事だった。
その妖魔と何か話をしたのだろう。
私が目を覚まし、次にジークと会話した時には、彼は私がもう天空の島へは帰る事が出来ない事を知っていた。
けれどその時、ジークは何も気にしていなかったように思う。
地上で共に戦うよう勧誘はしたが、決断したのはあくまであんただと言っていた。その時はまだ崩壊した精神から回復したばかりで、あまり詳しくは覚えていない。
アーニャはジークが冷淡だとひどく怒っていたが、私もジークの言う通りだと思っていた。
戻れなくなる事を知っていて、島を離れたのは私の判断なのだから。
だからこそ今、ジークの気まずさを感じ取って私は少し驚いた。重圧から解放され、ジークの中にも何か変化があったのだろうか。
私が驚きで答えられずにいるのを行き場がない為と誤解したのだろう(確かに行き場はないので正確には誤解ではないのかもしれない)。彼は珍しく私の答えを待たなかった。
「一緒に来たらいい」
ジークらしくない早口だった。
「え?」
「原因は俺だ。行き場がないなら一緒に来たらいい。俺はブラウディアン王国に戻るよう国王から命を受けている。ブラウディアンにはエイジアがいるからマーカスも一緒にくるだろうし、この流れならアーニャも家には戻らずついてくるはずだ。
ルーじいさんは同盟国の国選魔術師だが引退すると言っていた。孫を連れてこっちに来る事になるかもしれん」
なんと言って良いのか分からず、私は思わず沈黙してしまう。
その沈黙を否定ととったのか、ジークは更に口数を重ねる。
「今のメンバーがそのままブラウディアンに集まる形になる。あんただって、全く見ず知らずの中で生活するよりも、見知った顔がいる方が安心だろう。やりたい事があればそこでやればいい。
……、もし違う場所に行きたいのなら、まぁ、止めはしない。だがひとまず王国に滞在して改めて考えればいい」
「ええと」
「嫌ならば断ればいい」
断りにくい餌をまいて勧誘をしておいてどの口が言う。
私は少しおかしくなって、首に回したままの腕に少しだけ力を込め、あとは全身を預けるように力を抜いた。
「嫌じゃない。あなたと一緒に行くよ」
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