過去挿話  ー嘆きの夜ー

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過去挿話  ー嘆きの夜ー

湖畔に眠っていた巨大な洞窟から地上に戻った時には、真上に痩せた月が浮かんでいた。   ぬかるんだ淵に足を取られながら、私は正面からマーカスを羽交い締めるよう、懸命に彼を押し留めていた。 「シルヴィー! 離してよ、離せ!!」   まだ大人になりきれていない未成熟な体だ。けれどその未完成な体からは考えられないほどの力で、マーカスは抱きとめる私の腕を振りほどこうと激しくもがく。 「駄目だマーカス! 殺すな!」 「どうして! エイジアをあんな姿にしたのはコイツらだ! コイツらが原因なんだ! 殺してやる! 殺してやる!!」   マーカスの怒気は激しい殺気となり、縮こまった男たちに降り注ぐ。   緊縛され身動きが取れないでいる男たちは、マーカスの凄まじい殺気に当てられ、恐怖とプレッシャーで口角に泡を吹きながら意識を持っていかれている。   マーカスは既に剣を抜いていた。私が一瞬でも力を抜けば、マーカスはその人間離れした力でもって無抵抗な男達を躊躇なく切り殺しただろう。 「何でなんだよ! 僕は何度も人を助けてきたじゃないか! 沢山怪我もしたけど、ずっと魔物達と戦って、色んな人を助けてきたんだ!!」   悲痛な叫びに腕が緩みそうになるのを必死で堪える。 「それなのに何でなんだよ! シルヴィー離してよ! コイツらを全員殺すんだ! なんで邪魔するんだよ!!」   マーカスが泣き叫ぶ。   今までずっと歯を食いしばって様々な試練に耐えてきた。人類を救うのだと、勝手にその幼い肩に重荷を背負わられた日からずっと。   それなのに、彼がひたすら探し求めてきた生き別れの弟は、マーカスが救おうとしてきた人間達の手によって魔族に捧げられた。   そして口に出すのも憚られる残酷な拷問を今も受け続けている。 「シルヴィー! 止めるならシルヴィーだって僕の敵だ!!」   マーカスの絶望を、私が測る事はできない。   怒りに乗っ取られた瞳が私を睨む。そこにいつもの明るい輝きはない。   どんなに辛いことがあっても、決して失われることのなかったあの光が見えない。 「マーカス……!」   抱きしめたかった。けれどそれより先に私の腕を振り払い、マーカスが剣を構える。   男達が縛られ、無抵抗であることなど今のマーカスには関係がない。   間合いをゼロ距離にしてしまう必殺の斬撃で、マーカスはまずは男達の一人を殺す。   それだけはさせられない。   振り下ろされる剣先に構わず私はマーカスを抱きしめた。この子の絶望と苦しみが哀しかった。   私の肩を灼熱が貫き、顔に大量の血しぶきが降り注ぐ。肩の骨が嫌な音を立てる。   マーカスの顔も、私の鮮血で染まっていた。   新たな涙が血と混じり合い、赤く染まった頬を伝っていく。 「シルヴィー……、どうしてなの……」   次々と流れる涙が血と共に流れていく。   彼の怒りと絶望が、同じように清め洗い流されてくれることを願いながら、私は動く右腕に一層の力を込めマーカスを抱きしめた。   私の胸に顔を埋めるほどしかない身長が、彼がまだ守られるべき子どもであると告げている。 「マーカス、彼らを殺したら後で君が苦しむ」 マーカスは苦しげに眉をひそめ、震える口角を持ち上げた。 「僕はもう、苦しむ事を怖い事だとは思わない」   そうだねと私は頷いた。   ここに至るまでにも存分に苦しんできたマーカスにとって、苦しみは既に未知ではなく、恐れるものではなくなってしまっている。 「それでも嫌なんだ。君が傷つくのが嫌なんだよ」   視界が揺らめき、私もマーカスと同じように泣いていた。私の涙がマーカスの頬に零れ落ちる。今ならきっと優しく拭ってあげるだけで、彼の血まみれの頬を綺麗にしてあげることができるのに動く腕が足りない。 「マーカス! シルヴィー!」   追いついてきたジークとランディスの声が遠くから聞こえる。   彼らなら私が倒れた後、マーカスが男達を本気で殺そうとしても対抗できる。 「マーカスやめろ! 何してるんだ!」   ランディスの怒声にマーカスが我に返ったよう身を捩る。私の右腕はあっけなく離れてしまった。 「シルヴィ!!」   そのまま崩れ落ちる私をジークが受け止める。ジーク、お願いだ。   私はむちゃくちゃにジークの力強い腕に縋り付いて声をあげた。 「ジーク、ジーク…! マーカスを止めてくれ、彼に人を殺させないでくれ! マーカスが苦しまないように助けてジーク…!」 「分かった」   一見して事態を察知したのだろう。ジークは私のまとまりのない願いに即座に頷き、縋り付く私の手を強く握った。   次に目が覚めた時、私の肩の治療は済んでおり、宿のベッドで寝かされていた。   ゆるりと首を巡らせて見た限り、そこまで大きくもない部屋なのに、皆が集まっている。   ジーク。ランディス。ルー。アーニャ。そしてマーカス。   緊迫した空気が小さな部屋に充満していて、息苦しささえ感じる程だった。   話し合いの途中だったのだろう。ルーの言葉にマーカスが首を振る。 「僕は勇者になる前からずっとエイジアを探してたんだ。弟と再会する事が僕の生きる目的だったんだ」 「そうじゃろうとも。だがマーカス……」 「エイジアをあんな目に合わせた原因を作った奴らを、どうして守りたいだなんて思えるんだよ!」   マーカスは勇者をやめようとしている。私はすぐに話の内容に気付いた。そしてマーカスの考えは当然の事かもしれないとも思う。 「僕はこれからも一生あいつらを許さない! 人を助けたってきっとあいつらの顔が浮かんできて、なんでこんな人たちを助けてるんだろうって思うようになるよ。保身ばかりで他人には幾らでも残酷になれるような奴らなのにって!」   激しい憎悪渦巻く声でマーカスが低く笑う。 「マーカス。何度も言っておるじゃろう。お主はそのような狭量な男ではない。人を助ける時にそのような事を思うようにはならぬ」   きっと私が目覚める前にも何度も繰り返されたやりとりなのだろう。けれどマーカスの心は閉じ切って、誰の言葉も受け入れていない。   ふぅ、と軽く息を吐く音が聞こえた。ジークだった。 「もう無理かマーカス」 「無理だよ。今の僕は魔王にだって加勢したい気分だ」 「そうか」   意外だった。マーカスが勇者である事を一番に熱望しているのはこの男だと思っていたのに。   ジークは壁にもたれかかっていた体を起こすと、大剣とは別に腰の後ろに備えてある短剣を留め皮ごと外した。   そしてそのままマーカスの前に投げて寄越す。重い音をたて、床に投げられた短剣にマーカスが眉をひそめる。 「なに」 「もう勇者をやめるんだろう。ならその短剣で俺を殺せ」 「…は? ジーク、何言って…」 「俺を殺した後にランディスも殺してルーも殺せ。アーニャも、そこに寝ているシルヴィもだ。誰も抵抗はしない」 「ジーク、何を言ってるのさ。意味が分からない」   マーカスが短剣から遠ざかるよう、一歩後ずさる。   ジークは普段と何も変わらない様子だった。出かける準備が出来ているか問いかける時と、何も変わらぬ調子だった。 「どうした? 抜いて渡してやった方が良かったか?」 「何を言ってるのさジーク! どういうつもりだよ!」   床に落ちた短剣に無造作に歩み寄ろうとするジークに、マーカスが制するように怒鳴りつける。 「みんなも、こんなのおかしいと思わないの?! 僕に無抵抗で殺されるだなんて!」   狭い室内を必死で見回すものの、誰も何も言わなかった。全員が覚悟を決めてこの旅を始めたのだ。そして皆、マーカスを愛してる。 「マーカス、お前勇者をやめるんだろ?」 「そ、そうだけど……」 「ならこの世界の人間は全員死ぬんだ。ちゃんと理解してもらわないとな」   絶句して立ち尽くすマーカスを置いて、ジークは短剣を拾い上げた。   なめし革で作られた留め具から、手慣れた仕草で短剣を引き抜く。ジークが幾度も戦闘で使っているのを見てきたはずなのに、見慣れた刃渡りが今は異様なぎらめきを放っているかのようだった。   ジークは唖然としているマーカスの腕を取ると、躊躇なく短剣をその手に握らせた。 「最初は俺からだ。抵抗はしない。もし俺を殺して考えが改まればそれでいい。その時は残った仲間と最期まで使命を果たせ」 「……ジーク、そんな事出来ない」   憎悪の影はひそまり、マーカスは泣いていた。けれどジークはマーカスの手から短剣を離させようとはしない。 「お前が人を救わないという事は、そういう事なんだ」   弾かれたようにマーカスがジークの手を振りほどいた。 「うあああああああああああああああああああ!!!!」   握りしめた短剣を床に投げつけ、空になった手でマーカスは全力でジークの頬を殴りつける   宣言通り、ジークは無抵抗だった。 「うあああああ! あああああああああああ!!」   倒れ込んだジークにまたがり、叫びながら何度も殴りつける。   殴りつけながらもその顔は激しい苦痛に歪んでいて、殴られているのはまるでマーカス自身のようだった。   悲痛な叫びが嗚咽にかわりだした頃、マーカスの血に濡れて震える拳をアーニャがそっと手に取った。   びくりと震え、怯えたようにアーニャを見ると、彼女はひどく優しい目に涙を零して微笑んでいた。 「……!!」   その優しい眼差しを振り払うように立ち上がり、マーカスは逃げ出すように部屋から飛び出していく。 「待ってマーカス!」   アーニャが後を追う。誰も止めなかった。今はアーニャに追ってもらうのが一番良いと誰もが思っている。 「お前も随分無茶したなぁ」   ランディスが倒れたままのジークに手を貸して起こしてやる。ジークの顔は腫れ上がり、鼻が折れていてもおかしくない有様だった。   襟元で鼻の血栓を吹き飛ばしながら、ジークは苦笑いで立ち上げる。 「マーカスの優しさに漬け込んだ、随分ずるい手段だった」 「なんだよ、死なないって分かってやってたのか?」 「いや…、俺を刺し殺したあたりで我に返ってくれれば良いと思っていた。シルヴィを傷付けても止まらなかったからな」   話の流れでベッドを見て、そこで漸くジークは私が目を覚ましている事に気付いたようだった。 「なんだ、起きてたのか」 「あんな大惨事招いておいて。寝ていられると思うのか?」 私が体を起こそうとするのを、ルーが優しくなだめ、またそのまま布団へ横たわる。 「マーカスは? あの男達をどうしたんだ?」 「殺しておらぬ。安心せい。今は兵団に身柄を預かってもらっておる。しかるべき場所でしかるべき処遇を与えてもらわなければならぬからな」   ルーの言葉に全身の力が抜けるような安堵感を覚える。良かった。マーカスは誰も殺していなかった。 「しかしまた、無茶をしたな」   言いながらジークがベッドに腰を下ろし、無茶をした後の顔で私を覗き込んでくる。 「鏡を見てから言ってくれ」   私は思わず笑ったが、ジークは真顔だった。 「ジーク…?」 「あの男達と、お前の命なら、お前の命の方が大切だ。分かっているだろう」   静かに、言い含めるように告げられる。   全員の命を賭けた男が言う、甘い戯言などではないと分かっていた。   ジークはマーカスという希望を失い、世界を闇に閉ざさないために全員の命を賭けた。   私はただ、マーカスを傷付けたくない一心でしかなかった。   私がマーカスの剣で死ぬ事の方が彼を傷付けてしまうと理解しながら、感情でマーカスの剣の前に立った。   そしてこれからの戦闘でも、私の力はまだ必要とされているにも関わらず。 「シルヴィ。お前は甘すぎる」   反論は出来なかった。けれど同じ場面に遭遇すれば、何度だって同じ事をしてしまうだろう。   グッと唇を噛み締め黙り込んだ私の髪をジークが撫でる。熱を出した子供を宥めるような手つきだった。 「だが、マーカスは人を殺さなかった」   ジークの腫れた瞼に半分隠されたテンペストストーンの瞳が笑みの形を作る。 私は微笑んだ。
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