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暗闇が終わり、明日が始まる
その日、世界を覆い尽くす暗黒を、一筋の光が切り裂いたのだった。
誰しもが願い、誰しもが待ち望みながら、その日はもう来ないのではないかと、皆が絶望している事を感じていた。
予言の書に記され、女神の加護により選ばれし勇者が、まだ頬にそばかすを濃く散らす幼き者だったと知った時、人間の味方をした唯一の天使の私でさえ、強い目眩を感じたものだった。
種族を裏切り、命をかけて人の世を守ると決めたはずなのに、ここでお終いなのだと思わず強く瞼を閉じた。
私の肩を強く掴む大きな手がなければ、そのまま崩れ落ちていたかもしれない。
けれど今。
幼き勇者は奇跡を見せてくれた。
ボロボロになりながらも決して挫けなかった彼は、等々魔王を打ち破ったのだ。
「さて」
今までの暗闇が嘘だったように晴れ渡った青空の下で、騎士隊長が皆の注意を引くように声をあげた。
巨大な剣を振り回すに見合った大柄な体と、数多くの部隊の指揮を取ってきただけはある強いカリスマ性を持つ男だ。満身創痍くたびれ果てた仲間が、それでもその声に自然と顔を上げる。
騎士隊長――ジーク・ドラフは微笑んだ。
「帰ろうか」
最後の戦いの途中、私がヒーリングをかけてやらなければ確実に死んでいたにも関わらず、ジークはいつもと変わらない口調でそう促す。
ヒクッと、喉が鳴る音が聞こえた。
後ろを振り返ると、短いオレンジの髪に、頬に濃いそばかすを散らした少年(彼だ。彼が勇者なのだ)、マーカス・アーサーが大きな涙を零していた。
彼はまだ15歳になったばかりだった。
この戦いの主戦力だったとは言え、あの巨大な力を持つ魔王に立ち向かい続ける事に、重圧や恐怖を抱かなかったはずはない。
私は慌てて彼に駆けよろうとしたが、その前に精霊使いのアーニャ・ルイーダがマーカスを強く抱きしめていた。
アーニャはマーカスの2つ年上で、いつも彼の姉のように振舞っていた。だがマーカスを抱きしめるアーニャは、むしろマーカスに縋り付いて泣いているようにも見える。
マーカスはアーニャの無事を確かめるように、大粒の涙はそのまま、しっかりと抱きしめ返して泣いていた。
「野暮だろ」
グッと後ろから肩を掴まれ、振り返ればジークが笑っていた。
彼にはいつも呆れられている。人間の機微が分かっていないのだと。
アーニャがマーカスにお姉さんぶりながらも、時折顔を赤らめてぷりぷり怒ったりするのも、理由が分からないのかと苦笑された事もある。
私は天使だ。人間よりもずっと長く生きてきている。
それなのにジークの前に立つと、私はまるで何もしらない子どものような存在になってしまったように感じる時がある。
その思いを振り切るように、彼の癖の強い髪の間から覗くテンペストストーンのようなダークブラウンの瞳を強く睨み返した。
「おっと。こんな目出度い日に言い争う気は俺にはないぞ。……あんたも早く治療してもらえ。翼が半分もげちまったな」
喧嘩はなしだと言いつつ、不機嫌そうに眉間にしわを寄せながら、ジークは私の翼に触れるか触れないかの距離で手を伸ばしてくる。
触れたら痛いだろうと気遣っているのがさすがに分かった。
ジークが魔王に心臓を刺し貫かれたように(それを瞬間で私がヒーリングをかけた)、私もまた魔王に捕まり、翼をもがれたのだ。
私のヒーリングは自らには施せない。だから翼を完全にもがれる前に、マーカスが魔王の気をそらし、逃げる隙を与えてくれて本当に助かった。
「…痛みまで思い出した……」
「大丈夫か? ルーじいさん! シルヴィの傷をみてやってくれ!」
ジークはシルヴィオスと、私の本名を滅多に呼ばない。長すぎて面倒だと初対面の時から勝手に省略されてしまったままだ。
天使にファミリーネームはない。だからこそ、天使は名前を大事にしている。
結局いつまで経ってもジークは私の名前をまともに呼ばなかった。
「あぁ、じーさんも随分やられちまったな。大丈夫か?」
ルー・オリンズはいつも後方で私たちを助けてくれる心強い魔導師だ。彼はもう直ぐ70の歳を超えるはずなのだが、その体力知力は凄まじく若い。
真っ白な頭髪に真っ黒の魔導師の制服。いつもは隙なく着こなす制服も、今は破けて煤けて大惨事だ。
「ルー…、あなたにも加護を」
ルーを治療しようと伸ばした指先は、ルー自身に払われてしまった。
「寝言を言うにはまだ早い天使よ。わしの魔導は自身の治癒もできる。天使程の癒しは持っておらんが、今のお主よりはピンシャンしとる。魔王に裂かれた翼、邪の気が強く残っておるな。天使にはちと厄介じゃの」
「じーさん、こいつ大丈夫なのか?」
「うるさいジーク。お前の唸りは竜の轟のように煩わしいわ。黄金のように守れぬからといって、人を威嚇するな」
ジークは更に何かを言い募ろうとし、軽く口を開いたあと、そのまま黙り込んだ。
ジークとルーはこうやって偶に私には分からない人間同士のコミュニケーションを取る。私はそれが少し寂しく感じる時もあるのだが、ルーはそのコミュニケーションの意味を教えてくれない。
ジークに聞く手段もあるが、一度聞いた時にものすごく嫌な顔をされたので、それ以来聞くのをやめた。私だって自ら馬鹿にされにいくなんてごめんだ。
思い出に腹を立てていると、ジークの大きな手が私の背中をゆっくり撫ぜた。
翼の傷に当たらないように慎重に、十分な労りを感じる仕草だ。
優しくて、暖かい仕草だった。安心して、疲れ切った体をそのまま委ねてしまいたくなるような。
思わず体が傾いだが、ハッとして力を込めて立て直す。そして思わずジークの顔を振り仰いだ。
「どうした。痛かったか?」
「い、いや…、そんなことはない」
彼の顔を見るはずだったのに、私はすぐさま視線を地に落としてしまった。
ジークの私を見る目がおかしかった。
あまりに優しい目をしている。
私と彼は、魔王討伐中の旅路で、さほど仲が良かったわけではない。豪胆な性格のジークと、慎重で保守的な考えを持つ私との相性は、どちらかと言えば最悪だった。
戦略においても意見は常にぶつかったし、マーカスを頼りなく思ってハラハラしていた私に、何度もマーカスを信じるように説いてきたのもジークだった。
彼は中々マーカスを信じる事の出来ないでいる私に、強い怒りを感じていた。
私たちは魔王を討伐する仲間としながらも、互いに慎重に距離を取り合ってきたように思う。
それなのに、ジークは今、出会ってから見せた事のないような目で私を見ている。
マーカスの成長を喜んでいる時や、アーニャが新しい精霊を呼び出した時。部下の武功を称賛している時、美しい姫君に笑いかけている時————
今までに見た、過去のジークの瞳を思い出した。私には決して向ける事のなかった優しげな光を放つテンペストストーンの瞳。
思わず目を逸らしたのは羞恥心によるものだった。
私は思いもよらぬ程、ジークを見ていたのだと気付かされたからだ。
「さて、ワシの魔術でどこまでやれるか」
そう言ってルーはジークの手を私の背中から外し、彼特有の魔術を発動させた。
ルーは体の至る所に刺青を刻んでおり、その刺青は魔術の術式となっている。
刺青の墨は代々受け継がれてきた偉大なる魔術師達の魔力でできており、特殊な訓練を受けた者でなければ激痛のあまり一筋足りとも墨を入れる事ができないという。
その特殊な墨で刻まれた刺青はルーの体を蛇のように這いずり、そしてルーの体を伝って私の千切れかけた翼へ移動する。
「流石だ。くっついてきたな」
ジークが顎を撫でながら、感心したように呟く。
刺青が私の背中と千切れた翼を行き来し、その度に針で布を縫うように翼が背中の定位置へと戻っていく。
「これはあくまで応急処置。材木を釘ではなく糊で張り合わせただけのようなお粗末なものじゃ。
本格的に処置をせねば翼はダメになったまま、痛みも取る事ができん。そして邪な気が天使の回復を拒んでおる」
ルーは眉間に深くしわを寄せ、背中の傷跡を睨んだ。
魔力を持たない人間ならば見る事の出来ない気の力を、彼ははっきりと見て取る事ができる。
「そもそも天使、力を使いすぎたな。どこぞの特攻をしかけた馬鹿のために施した、巨大な加護の反動じゃ。
魔王に貫かれた心臓をその場から修復するなぞ、その場で昏倒してもおかしくない荒技。おかげで邪気を自身で祓う力も残っておらぬ」
ルーの言葉に、魔王と対峙した最終局面、全員が死を覚悟した瞬間があった事を思い出す。
勇者の力が魔王を切り裂くに十分な力がある事が分かったにも関わらず、薄皮一枚の所で魔王に届かない。そして魔王がこの世界を葬る為、天空に描く巨大な魔法陣は完成目前だった。
私はもう決着は付いてしまったと感じていた。
おそらくあの場にいたほとんどの者がそう思ったはずだ。
あの時、本来なら空を飛べる私が天空の魔法陣に最後の攻撃を仕掛け、相打ち狙いで破壊するのが最善の策だった。
しかし翼をもがれた私は無様に地に膝をつけるしかなく、自責の念に気が狂いそうだった。
私が皆を殺したのだと思った。
その時、背後で凄まじい竜の咆哮が地響きのように響き渡った。
ジークが暴竜から奪った竜牙の剣が、凄まじい勢いで炎を巻き上げていた。その凄まじさは使い手のジークの身すら燃やし尽くさんと天高く渦巻き、そしてジークは魔王へと正面から向かい合った。
激しく魔王と切り結び、更なる一歩を踏み込んだ時、魔王が闇の爪がジークの心臓を切り裂いた。
そして、その瞬間ジークの影から躍り出たのはマーカスだった。
ジークは自身をマーカスの盾とし隠れ蓑とし、薄皮一枚で届かなかったマーカスの力を魔王の元へと届けたのだ。
「じーさん失礼な事を言うな。あれは戦術の一種だろう。マーカスを説得するのに多少の時間はかかったが、距離もタイミングも計算し尽くした行動だ。馬鹿の投げやりの行動のように言ってくれるな」
ルーの皮肉にジークは苦笑いで返す。
ジークはその大柄な身体と鉄板のような大剣を操る事から、一見粗野な人間に見られる事が多い。
しかし彼の頭脳は冴え渡っており、戦略・戦術に関してはお手の物だ。
実際に過去、彼がその名を捨てるまで、ジーク・ドラフの名は千人隊長としてブラウディアン王国に刻まれていた。
「ふん。天使に心臓の治癒をしてもらうまでも計算の内か?」
ルーがつまらなさげに鼻を鳴らす。
「うん? ああ、こいつの性格と能力で、俺を治癒しない理由はないからな」
言い切られ、私はしばし絶句してジークの顔を見上げた。ジークは確認に満ちていて、何も疑問に思っていない顔つきだった。
だが私の視線に気が付くと、少し気まずげに咳払いをした。
「だがまぁ、それであんたの力が落ちて、傷が治りにくいっていうんだから、そこは詫びる」
無精髭の浮きだした頬をザラリとひと撫でした後、ジークは私の目をしっかりと見つめた。
「シルヴィ、あんたがいたから無茶ができた。あんたが俺を助けると信じられたから、俺は躊躇わずマーカスを魔王の元へ届ける事ができた」
真摯に告げてくるジークに、私は思わず狼狽えた。
私たちは互いの能力を認め合ってはいたが、言葉や態度で表すような関係性ではなかったはずなのだ。
戦いが終わってジークは何だかおかしい。
思わず後ずさりすると、ルーが諌めるように私の背中に掌を当ててグッと力を入れた。無言で逃げるなと促されている。
無骨な騎士は私の前に仁王立ちしたまま、熱のこもった瞳で言葉を紡ぐ。
「あんたは俺だけじゃなく、世界も救ったんだ。ずっと言えなかったが、改めて礼を言う。
シルヴィ。あんたは俺たち人間を、最後まで見捨てないでいてくれたんだ。本当にありがとう」
いつも冷静なジークから初めて聞く、内面から溢れた真実の声だった。その声を聞きながら、私は自分の種族を裏切った日の事を思い出した。
天使が住む、時空の狭間に浮かぶ天空の島。
私は島での使命を捨て、二度と仲間の元へは戻れないと分かっていながら、人間の元にとどまった。
人間は語られてきた程高潔な生き物ではない。知ってはいたが理解は出来ていなかった。
後悔し、自らの選択に絶望した夜もあった。
けれど。
「あ、あなた達が……、死なないで、良かった……」
私の喉を、灼熱の何かが通る。声はおかしい程震えていた。
目が炎のように熱を持つ。だからそれを冷ますために水をかけるのは仕方のない事だ。
ジークは驚いたように息をのみ、そして覆いかぶさるように私を強く抱きしめた。
「シルヴィオス……! 感謝する! あんたの献身、あんたの加護に感謝している!」
ルーが傷に触るといったような事を言っていたが、遠くから響くようであまり良く聞き取れない。それはジークもそうなのか、翼を巻き込み抱きしめてくる腕の強さは変わらない。
かすかにマーカスの声が聞こえた。アーニャの囁くような声も。
ああ、何故こんなに世界が遠く感じるのだろう。ふわふわとした気持ちで思う。
まるで夢のような……、いや、夢なのは困る。目覚めてまだ魔王が生きているなんて、目覚めた自分を呪ってしまう。
身体中の力が抜けて、ぼんやりと目の前のテンペストストーンの色を眺める。
「俺の天使」
低く、響く音でそう告げられた。
私があなたの天使なら、あなたは私の何なのだろう。
考えようとしたが、そこまで頭を回す事が出来ず、等々私は意識を手放し暖かな腕にその身を任せた。
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