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ますます意味が分からない。
それでも、状況に慣れてきたのか冷静になったのか、彼の頼みにまぁいいかと軽く頷いてしまった。……が、よく考えたら名前も知らない男相手に軽率すぎたかもしれない。
「あのさ、変なお願いはナシでよろしく」
「大丈夫です、部屋に閉じ込めて独り占めしたいとか思っても言いませんから」
「言ってるじゃん……」
「ち、違います……そうじゃなくて……一度だけ、名前を……呼んで欲しいのです」
「……名前?」
「俺、小林那央也って言います」
「あ……はい」
「那央也って、三文字でこう書きます」
滑らかに凄いことを口にした後、徐に上着のポケットから何かを取り出すと、それを渡される。
受け取った一枚の名刺には、氏名と電話番号、勤務先と思われる会社名も一緒に記されていた。
「珍しい名前だね」
「ありがとうございます! 年は二十四歳で、趣味はスイーツ巡り。好きな花はガーベラ、甘いものが大好きですけど、それ以上に好きな人は……あなたです」
別に褒めたわけでもないのに、俺の一言にテンションが上がったのか、嬉しそうに自己紹介をして、最後にとんでもない情報までぶっ込んできた。
(それ以上に好きな人はあなたですって……なんだよ)
「いや、自己紹介はいいから……って、そういうの大事だけど、今じゃないって言うか、タイミングが……」
「ですよね……すいません……」
「で、名前を呼べばいいんだよね」
「はい! 思い出に下の名前を一度でいいので呼んで欲しいです!」
「それだけでいいの?」
「はい……十分です」
「分かった。なお……」
衝撃的過ぎた告白に比べたら容易い要望にホッとして、彼の名前を口にした瞬間、急に大声を出された。
「あー! ちょっと待ってください!」
「え、何……どうしたの」
「ちょっと深呼吸します、心の準備が!」
見れば深呼吸を繰り返し、気合いを入れるかのように独り言を呟くと、目を閉じる。それから数秒後、彼は再び口を開いた。
「準備出来ました、どうぞ!」
そして、覚悟を決めたであろう彼に向かい、ごく普通に名前を呼んだ。
「那央也……」
呼び終わった後も一向に目を閉じたままで、全く彼は動かない。
「あの……大丈夫? 目、開けたら?」
とりあえず何度か声を掛ける。すると、やっと目を開け、礼を言われた。
「あ、ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
「嬉しい……です。夢が叶った……」
そして、噛み締めるように夢が叶ったと涙目で言うと、とても幸せそうに笑った。
「これで明日から悔いなく転勤できます、ありがとうございます! では、失礼します!」
それから深々とお辞儀をして礼儀正しい挨拶を終えると、踵を返して俺の前から去って行こうとする。
そんな潔い彼の行動に、何故かわからないけど咄嗟に呼び止めていた。
「ちょ、ちょっと!」
彼には、今日初めて会った。
なのに……気付いたら俺は、彼の腕を掴んでいた。
「あ、あの……」
予期せぬ出来事に、固まったままの彼。
そりゃそうだ。ここで引き止める理由が俺にはない。
理由はないはずなのに……
「お、俺の名前は、羽瀬川修一って言うんだ」
俺は、その腕を離せなかった。
***
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