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階段に漂うコーヒーの香りをたどりながら上ると、視界が開けて広いリビングが見えた。右側にはカジュアルな木調のダイニングテーブルと椅子がたくさん並んでいるが、椅子の形や色は全て異なっていて個性的な空間を作り出している。左側には白い皮張りのソファが向かい合って置かれ、その奥には大きな窓があった。暮れかかった空の闇と太陽の残光が混ざりあい、灯りのつきはじめた街を覆っていた。陽菜はその景色に釘付けになった。
――ああ、きれいな夕焼け。
「君が天音の」
横から不意に声をかけられ、陽菜は声を上げそうになった。うっかり警戒を解いてしまい、30歳代くらいの男性がすぐ横のキッチンでコーヒーをドリップしていたのに気づかなかった。最初に出てきた男性とこのおじさんと、叔母は何人の男性を囲っているのだろうか。
若い男性が、どこかの引き出しをさらって陽菜に名刺を差し出した。
「これ、僕の名刺」
はあ、と言って片手で受け取り、名前を見た。
『エグゼクティブ・アシスタント
小比類巻一』
「エグ……?
こひるいまきィ?」
陽菜が思わず呟くと、突然、男性二人は笑い出した。
「ほらね、ほら」
「やっぱり」
陽菜には何が起こったのかさっぱりわからなかった。お腹を抱えて笑っている二人を見ていると、なぜ自分がこんなに笑われなければならないのか、動揺した陽菜の目に涙が浮かんだ。男性たちは陽菜の様子に気づいても謝るそぶりもない。
「漢字の『一』で、『はじめ』」
名詞を差し出した男性は目をこすりながら笑っていた。
「『こひるいまき一』じゃなくて『こひるいまき・はじめ』」
「やったなイチ。今回もつかみはOKだ」
小比類巻ともうひとりの男性は何かに勝利したかのように、最後にハイタッチをした。
「でも勅使河原さん、この子困ってますよ」
勅使河原と呼ばれた男性はちらっと陽菜を見たが、よっぽどの笑い上戸なのかまだ腹を抱えていた。
陽菜はいたいけな女子高生が困っているんだから少しは構いなさいよと心の中で叫んだ。小比類巻とか勅使なんとかとか揃いも揃って面倒くさい名字は一体何なんだ。
陽菜は目の前で笑い転げる大人たちに殴りかかろうかと思ったが、エントランスのガラスにべっとり指紋を残してきたことを思い出した。この面倒くさい名前の人たちが通報して警察沙汰になったらすぐに身元が割れてしまう。そもそも叔母の家だ。いや待てよ、こいつらは叔母に囲われている弱みで、姪の自分に何をされても告発できないかもしれない。そうであれば、よし、殴ろう。陽菜が拳を握りしめた時だった。
「ああ、天音さん」
男性二人が視線を向けた先を陽菜も見た。階段から着物を着た華奢な女性が降りてきた。
その場の雰囲気が一転して変わった。グレーの上品な光沢の地にところどころ赤い模様のある着物――大島紬というのだと後で母から聞いた――に、白っぽい帯と臙脂色の帯締め、シルバーの蝶の帯留めが美しい。髪はポニーテールのように無造作に留めて肩に流しているところが、普段から着物を着慣れているように思われた。
「陽菜?」
叔母が微笑んだ。その優雅さは陽菜のちっぽけな怒りを吹き飛ばした。この美しい女性が自分の叔母なんだと陽菜は感動した。
「叔母さん」
ところが、陽菜が声をかけると天音の態度が豹変した。
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