後編 餓鬼

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後編 餓鬼

 4人の男たちは、自分たちが殺した男女の死体を男女が乗って来た車に押し込めるためにどう運ぶかで揉めていた。  「男の方運ぶの嫌だわ。コイツ色んなもん垂れ流してクセ―しよ」  「トラ紐かかってんだから、それで引きずってきゃ済む話じゃねーの」  「何か色々落としたら面倒だろうが。何から足つくかわかんねーぞ」  「そういや勢い余って剥がしちまった女の爪どうしたユウト? その辺に捨ててねーよな」  「え? 捨てちまったよ」  「ユウト、オマエきっちり探して拾っとけ。そっから足ついたらオメーが一人で泥被れよ、オマエがしゃぶってオマエの唾液べったり着いてんだからよ」  「そんなことしてねえよ! わかったよ、ちゃんと拾っとくから……」  「テツヤも、女殴って血の付いた石、その辺放っとくなよ」  「ウッセーな、わかってるよ。すぐそこに転がってるわ」  「なあ、コイツ、本当に死んでんのか? えれー渋とかったからよ、確認した方がいいんじゃねーの?」   男たちの誰かの声を受け、トシと呼ばれたリーダー格が、うつ伏せになった男の死体の頭を思い切り蹴り飛ばす。  男の死体の首は骨が折れてはいないだろうが、蹴られた衝撃でかなり捻じれ、通常なら向かない角度を向いた。  「流石に死んでんだろ。ショウタ、それ仰向けにしてみ。息してりゃ胸か喉か動くだろうからよ。ビビりのオメーにもわかんだろ」  「うえー、コイツ血とか色々汚ったねーから触りたくねえんだけどな」  ショウタは文句を言いつつも男の死体を足で転がす。一人では流石に難しく、トシ、テツヤも死体の腕を蹴ったり足を蹴ったりして死体を仰向けにした。  「な、こんだけやってもピクリともしねーし、どっこも動いてねえ。完全に死んでるわ」  「何か目も口も開いて鼻は潰れてるし、片っぽの目は飛び出て無くなってんだろ?   マヌケな顔してんな、コイツ。そーいやこいつの目、どこいった?」  「駐車場に落ちてんだろ、確か。テツヤが鉄パイプで無茶苦茶やりやがるからよぉ。後で拾ってコイツの車に放りこんどきゃいいだろ」  「しっかし自分のオンナが乱暴されてんの片目で見てどう思ってたんだろうな、見えてたんかな」  「案外興奮してたんじゃねーの?」  「ハハッ、なっさけねーでやんの。上等切って来たくせによ」  「ほんじゃー情けない男にオンナの爪プレゼントしてやっか」  暗闇の地面から探し出した女の爪を見つけて拾ってきた小声のユウトが、悪趣味にも男の死体の口に、女の爪を押し込んだ。  その瞬間、死体の口がバチンと閉じ、ユウトの右手の親指、人差し指、中指の3本が嚙み切られた。  「痛ってー! 指! 俺の指! クッッソがあぁぁ!」  嚙み切られた右手指の切断部分を左手で抑え、しゃがみこむユウト。  普段の小声とは違い、呪詛の言葉を大声で喚く。   木々の間から洩れた常夜灯の微かな明かりに照らされ地面の上に仰向けに横たわった死体は、目を見開き鼻が潰れたその表情は変わらないまま、閉じた口で、ただ下顎だけが動きモグモグバリバリとユウトの指と女の爪を咀嚼している。  「オイ、何だコイツ、死んでんじゃねーのかよ!」  誰かが驚きの声をあげる。  その様子を見ていたテツヤが、女を殴り殺した石を拾い、咀嚼を終わりゴクンと嚥下をした男の死体の口を、女にしたように石で殴りつけようとした。  「ざっけんな、テメーのオンナと同じ目に遭わせてやらァ!」  振り下ろした石は正確に男の死体の口の位置を捉えていたが、石が死体にその質量を叩きつける直前、  ガパッと死体の大きな口が開いた。  まるで、死体全体が口になったかのようにテツヤには思えた。   死体の開けた大きな口の中に、渾身の力で石を振り下ろしていたテツヤの上半身は前のめりに落っこちるように入り、  バツンッ  と死体の口が閉じた。  目を見開いたまま、無表情でゴリッ、ゴリッ、バキン と咀嚼を続ける死体の横には、左腕を辛うじて残した、胸から上の大半を齧り取られたテツヤだったモノが齧られた断面から血を流し転がっていた。   噛みちぎられた手を抑えて喚くユウト以外の2人は、何が起きているのかわからなかった。  突然ユウトが齧られたと悲鳴を上げた時はまだ男が生きているのかと思い特殊警棒と鉄パイプを握りしめたが、単純なテツヤが石で死体に殴りかかったと思ったら、テツヤの上半身が半分無くなっている。  ……何だ、何が起きたんだ?  トシとショウタは、とにかく何か訳が分からないことが起こっている、それだけはわかった。  死体をそのままにしておく訳にはいかない、自分たちの殺人がバレてしまう。  だが死体の周辺で何か異常で訳のわからないことが起こっている。  こんな時にどう動くべきか、その指標になるような経験は悪事の場数を踏んだリーダーのトシですら持っていない。  動けなかった。   指を噛みちぎられたユウトだけは、自分の体が欠損してしまったことを大声で喚き、呪詛の言葉を吐いている。  「ちっきしょおおお! ふざけんな、フザケンナ! 俺の指! 俺の指返せぇ! てんめぇ、テメエみてえなクソ野郎が、俺の大事な指、食いちぎっていいと思ってんのかよぉ!」  普段のユウトの小声に慣れたトシとショウタは、ユウトがこんなに大声を出せる奴だと思っていなかったので、軽い驚きを感じつつユウトを見た。  ショウタはユウトを落ち着かせようと近寄る。  すると、突然男の死体が起き上がり、口を開けて喚いているユウトに飛びついた。  「チキショウふざけ  バツンッ   男の死体はユウトの肩にグニャグニャの両腕を掛け、口を閉じ下顎だけを動かしている。  ユウトの頭は顎から上が無くなっている。  男の死体の口の中からはゴリ、ゴリンと硬いモノを嚙み砕く音がくぐもって聞こえてくる。  目の前で見ていたショウタでさえ、一瞬過ぎて何が起こったのかわからなかった。  気が付けば大声で叫んでいた。  「うわあああああっ、バケモンだっ! 助けてくれえええ!」  叫ぶと同時にショウタは車に向かって走り出した。  既にショウタよりも先にトシは車に向かって走っている。  ショウタが乗って来たのはトシのセルシオだ。  トシはショウタを待たずに先にセルシオに乗るとエンジンを掛けた。  置いていかれてはたまらない。  トシはこんな時、絶対に自分自身のことしか考えてない。付き合いの長いショウタはエンジンを吹かすトシに大声で怒鳴った。  「待ってくれトシ、乗せろって!」  叫ぶショウタとセルシオに乗ったトシは一瞬目が合った。  ショウタを冷酷に見つめるトシの細い目が、突然驚愕したように一杯に見開かれるのがショウタには見えた。  バツンッ  ショウタは目の前が真っ暗になったと思ったら、首に激しい痛みを感じた。  生暖かく真っ暗な狭い空間に包まれネバつく生臭い液体が顔中に絡む中、小さな臼のような固いモノが上下から自分の頭に物凄い力で食い込んで潰していくのを感じながらショウタの脳だった肉塊の意識は途絶えた。    トシは、男の死体がユウトに飛びついた瞬間に逃げ出していた。  あの死体はゾンビにでもなっちまったんだ!  ショウタのことなんてどうでも良かった。  いや、次にショウタが食われてくれたら、俺は逃げ延びる時間が稼げる! トシはそう思っていた。  自分のセルシオに乗り込み、エンジンを掛け、吹かす。  すぐにギヤをバックに入れ、駐車場から車を出そうとしたらショウタの怒鳴り声が聞こえたのでついそちらに目をやった。  ショウタに男の死体が飛びつくのが見えた。  男の死体は真っ黒な口を大きく開け、どうしてそうなるのか理解できないが、ショウタの頭を丸ごと噛みちぎっていた。  「ぅわああああああぁっ!」  トシは遮二無二セルシオをバックさせた。  斜め後ろにテツヤの黒いワゴンRが停まっており、激しくセルシオの後部がワゴンRにぶつかった。  普段のトシなら自分の愛車に傷が出来たりすると怒り心頭になるのだが、この時ばかりはそんなことも忘れ、ただセルシオが全速で前進できるスペースを確保し、一刻も早くこの緑地公園から逃げる、それしか頭になかった。  ハンドルを切り、ギアをD(ドライブ)に入れ、床ベタでアクセルを踏む。  いきなり一杯にトルクを掛けられたタイヤは一瞬空転したが、地面を噛むと急発進してセルシオは全力でその場から離れた。  ッハハッ! よっしゃ、これならゾンビでも追いつけねえ!  緑地公園の駐車場出入口から左に折れ、県道を飛ばして駅前の繁華街まで出れば大丈夫だ。  対向車が来れば、ゾンビが必死で追っかけてきたとしても対向車を襲ってくれるだろう。  トシは少しホッとした。  ガキの頃からの付き合いだったショウタには、悪い事しちまったかな。  でももう手遅れだった。しゃーない。  ショウタも、俺のおかげで最期にけっこういいオンナとやれたんだから、まあ許せよな。   まだ駐車場からは出ていないが、一応後ろの様子を確認しようとトシはバックミラーに目をやる。  バックミラーには、常夜灯も、倒れているショウタの体も、セルシオに傷をつけたワゴンRも何も映っていない。  真っ黒だ。  バックミラー一面漆黒の闇が広がっている。  バツンッ  音がし、ガクンとトシの体はシートごと後ろに傾いた。  ガリガリガリガリガリガリガリガリッ!  突然セルシオが減速し、制御が効かなくなる。  バックミラーを再度見ると、セルシオの後部座席から後ろが無くなってぽっかり空いて地面が見えており、残った車体後部が駐車場のアスファルトに擦れ火花を散らしている。  俺のセルシオを、食いやがった!  トシは何故かそう思った。  半分になったセルシオは、地面に擦れて減速しながらも、駐車場のフェンスに突っ込み止まった。  トシはフェンスに突っ込む瞬間に踏ん張ったが、シートベルトをしていなかったためハンドルに頭を激しくぶつけ、額から出血した。  クソッ! 何で俺がこんな目に遭わなきゃなんねえんだ!  アイツが大人しく有り金全部差し出してたら、俺らだってあんなことしなくても良かったってのに!  いいオンナ連れてるからって意気がって突っかかってくるからだろうが、自業自得ってもんだわ!  オンナ殺したのだって俺じゃねえ、テツヤのアホが勝手にやったんだ!  トシは、自分達の理不尽な行いを棚に上げ、まるで自分が被害者といった歪んだ怒りを感じながらセルシオのドアを開け外に出た。  男の死体はトシから僅か5m程のところにあった。  横たわってはおらず、立っている。  いや、立っていると言っていいのだろうか?  空中の見えない巨大な手が、男の死体の頭を摘まみ上げて足が辛うじて地面に着く高さで曳きずって移動させている、そんな違和感のある立ち方と移動の仕方でゆっくりとトシに近づきつつある。  男の死体は全身から流れ出た赤黒い血に塗れ、足元にはポタ、ポタと糞尿の液が垂れている。  全身の骨は折れているようで、両腕は撫で肩のようにだらーんと真下に垂らし、右の脚は大腿骨が折れて変な角度に膝から上で曲がっている。  首にはトラロープが巻かれたまま、ズルズルと引きずっている。  表情は変わらず、鼻は折れ曲がり左目のあった場所はぽっかりと空き黒く、右目は毛細血管が破れ赤黒く充血して生気なぞ感じられない。  閉じた口だけが下顎が動きカリガリバキバキボリボリと硬いモノを噛んでいる鈍い音をさせている。  トシは、さっきまでのような得体の知れないモノへの恐怖ではなく、歪んだ怒りの方が勝っていた。  しまい込んでいた特殊警棒を取り出し、振る。  カシャンと音がして特殊警棒が伸びる。  トシは、その音が自身の怒りを暴力的な衝動に転換し膨れ上がらせるのを感じた。  「てめえ、意気がって突っかかって来やがって! 弱えてめえ自身が悪いんだろうがよ! よくも俺のセルシオおシャカにしてくれやがったな!」  じりじりと近づいてくる男の死体に向かってそう怒鳴る。  「てめえのオンナが乱暴されてんの、何にも出来ずにただ見てるって気分はどうだ? ああ、てめえのオンナは良かったよ、生きてりゃ俺のオンナにしてやっても良かったくれーにナァ!  テツヤのアホが怒りに任せてぶっ殺しちまわなかったら、そうしたんだけどよ、まあこれもテメーが弱えのが全て悪いんだよ!  身の程知っとけよ、オラァ!」  トシはそう言うと、男の死体に駆け寄り、死体の頭に特殊警棒を思い切り振り下ろした。  グシャッ  と言う感触がトシの手に伝わる。  死体になった男がまだ生きていた数時間前に意識を飛ばして倒れた後に、ひたすら特殊警棒で殴打してやった時以上の手ごたえを感じニヤリとする。  特殊警棒は男の死体の頭頂部を凹ませて食い込み、残った右目を少し飛び出させた。  もう一発殴って完全に右目も飛び出させて踏みにじってやろう、左目はテツヤの野郎が鉄パイプで後頭部を殴って飛び出させたんだよな。  あんなアホにしょーもないことでも負けんの、恥ずいからな。  トシはそう考えもう一度力の限り特殊警棒を振ろうと振りかぶった。  その時、男の死体の口が大きく開いた。  男の死体の口の中は漆黒の闇だ。  バツンッ  男の死体の口が閉じると、トシは自分の右肩が熱くなったのを感じた。  だが、カンケーねえ、死んでるコイツをボコボコに、文字通りのグチャグチャにしてやれば何もできゃしねー。  トシはそう思い特殊警棒を思い切り振り下ろそうとしたところで、自分の右肩から先が無くなっているのに気づいた。  男の死体は相変わらず表情を変えず、下顎だけを動かしバキンッ、ゴリッ、ゴリッ、バキンと硬いモノを噛んでいる音を立てている。  閉じた口から、特殊警棒がまるでポッキーの先っちょのように一瞬飛び出していたようにトシには見えた。  そんなハズねえ、あんな風に特殊警棒が縮むわけねえ、俺の見間違いだ。  現実感が感じられない。トシは齧られた右肩から血が噴き出しているのにも気づかず茫然とした。  男の死体が口の中のモノをゴクリと飲み込んだ。  「うわああああああっ!」  トシは、男の死体に背を向けて必死で真っ暗な県道に向かって走って逃げだした。  駄目だ、ありゃゾンビなんかじゃねえ、もっと、もっとやべえモンだ。  とにかく、とにかく逃げるしかねえ!  誰か通りかかってくれたら、ソイツを楯にしてでも絶対に逃げ切ってやる!  バツンッ  突然腰から下が痺れたようにトシは感じた。  そのせいでトシは走っていた勢いのまま転倒し、軽々とアスファルトに転がった。  右腕が無いので受け身は取れず、強かに顔面をアスファルトに打ち付ける。  トシの鼻もアスファルトで潰れ、前歯も何本か欠ける。  激痛がトシの顔面を襲った。  トシはここ十数年、顔面を殴られたことはなかったし、顔面をどこかに打ち付ける何てこともなかった。  仰向けになったトシは左手で顔を抑え、痛みを紛らわせようとする。  痛みと悔しさでトシの目には涙がにじんだ。  「チキショウ! 何で俺がこんな目に……」  トシは自分を追って来る男の死体を見ようと必死で頭をもたげると、自分の下半身の腰から下が無くなっており、大腸がはみ出ていることに気が付いた。  「うわ、ああああああ」  最早トシは弱々しい悲鳴をあげ、泣き叫ぶくらいしか出来ない。  トシのはみ出た大腸が散らばる地面の先から、男の死体が相変わらずゆっくりと、ズズッ、ズズッという擬音が聞こえるような移動速度でトシに近寄ってくる。  「く、来るなあっ」  涙を流しながらトシは、男の死体から遠ざかろうと必死で左手だけでいざろうとする。  その速さはノロノロとした男の死体の移動速度よりも絶望的に遅い。  さっきまで痺れていたトシの腰の切断面から、はみ出た大腸から、普通なら身動きできない程の痛みがトシを襲う。  「ぐああああああ、痛てえェっ!」  あまりの痛みに、トシは仰向けに転がった。  内臓には痛点、無いんじゃないのかよ、やっぱり学校のいけ好かねえ教師の言う事なんざアテになりゃしねえじゃねえか、チキショウ!  トシは全身を襲う痛みに涙を浮かべて耐えながら、何故か過去の中学、高校教師を呪った。  ズズッ、ズズッと言う音がすぐそこで聞こえる。  トシはもう男の死体の位置を確認しようなんて気はなかった。  「痛ってー! もう、十分だろうが、俺の負けだ、済まなかった! 俺達が悪かったよ、なあ!」  ただこの場を何とか切り抜けたい、その一心で心にもない謝罪を喚き散らす。  「すまねえ、俺達が悪かったって! 俺らがカツアゲした金は全部やる! だから許してくれ! 頼むうぅぅぅ! お前の家族にも渡す! 何なら香典も弾む! 一番偉い坊さんに供養してもらうようにするからよぉ、頼むから許してくれよぉ!」  どさっ  トシの体の上に、男の死体が倒れ込んだ。  男の死体は血でべとべとに濡れ、ぐんにゃりとした冷たい肉の感触が体に密着し、死体の体内で折れた何か所もの骨がトシの上に倒れ込んだ弾みでグキッゴキッと鈍い音を立てる。  まさに死体以外の何物でもない。  男の死体はトシに覆い被さると動かなくなった。  何だよ、結局死体じゃねえか、死体に俺の謝罪も通用するんだな。  コイツは死んで、俺はまだ生きてんだから、結局俺の勝ちだ!  クッソ、コイツ汚ったねーんだよ、ベトベトドロドロしやがってよ、ニオイだってヒデーもんだ。クソだの何だの垂れ流しやがって!  ひんやりしてるし、気持ちワリ!  トシは心の中でそう悪態を吐くと、左手一本で気持ち悪い死体を自分の上から退けようとする。  勝ち誇ったせいでアドレナリンがトシの脳内から分泌されているのか、全身の痛みが気にならない。  男の死体の胴体を小突くと、やはり死体の折れた肋骨がグキグキ音を立てる。  ったく、重てーんだよ、どけよ、さっきみたいに動いていいからよぉ、邪魔くせえ。  トシが男の死体を退けようと左腕に力を入れると、男の死体が意外に軽く持ち上がった。  だらりと垂れた男の死体の腕が、ぶらんと揺れトシの顔の折れた鼻に当たる。  「痛ってえなぁ、ボケがよぉ!」  トシは思わずカッとなり、男の死体の腕を振り払い、折れた鼻を左手で庇った。  懇願や謝罪などの気持ちは欠片もトシに残っていない。  男の死体を単なる邪魔くさい、汚いモノとしか今や認識していない。  死体の腕は慣性の法則でまたトシの顔に戻って来るはずだったが、そうはならなかった。  男の死体は、その上半身をまるで蛇が鎌首をもたげるかの如くに反り返らせ、両腕をぶらぶらとさせている。  トシは左手で自分の潰れた鼻を覆いながら、男の死体の再度の異様な様子に気づいた。  黒く充血した右目が半分飛び出し、益々表情がわからなくなった男の死体の口がカパッと開く。  口の中はどんな闇よりも暗い漆黒。  トシには死体の口が開いたと言うだけではなく、死体の口を中心に空間が漆黒に割れたように感じられた。  「あ、あァ……」  最早何をしても無駄だ。  トシは瞬時に理解した。  トシの下らない人生の走馬灯がトシの脳裏を駆け巡るよりも早く  男の死体の上半身は素早くトシに迫り、トシの頭を口の中に収めると、その口を閉じた。  バツンッ  ゴリッ  男の死体は、緑地公園の林の中の茂みに戻っていた。  男の死体の前には、男の恋人だった女の、顔を完全に陥没させられた無残な死体が横たわっている。  男の死体は、女の死体に寄り添うように横たわると、女の死体にゆっくりとその口を寄せた。  パリ パリ パリ コリ コリ コリ  誰もいない緑地公園に何かをゆっくりと噛み砕く音が響く。  最初から惨劇を目撃していた存在があったとしたら、女の死体を噛み砕く男の死体が、彼らを襲った男たちを食い殺したような暴力性ではなく、愛おしさを感じて味わっているように見えたかも知れない。  やがて愛しい女の体をきれいに平らげた男の死体は、それまで動いていたのが嘘だったかのようにピクリとも動かなくなった。  満足し、成仏したのだろうか。  だが突然男の死体は、体を不自然に曲げて自分の足から自分自身を食べだした。  女を食べている時とは違って、彼らを襲った男達を屠った時の様に、まるで憎悪を叩きつけるかの如き勢いで自分の体を噛み砕いて行く。  がき がき がき がき がき がき  前歯が自分の体を噛みちぎってかち当たる音が忙しなく緑地公園に響いた。  その音は、東の空が白み常夜灯が消える寸前まで聞こえていた。  緑地公園の駐車場入り口に立つ警官の前を素通りし、刑事を乗せた車が駐車場内に入る。  刑事は駐車場内の空いた駐車スペースに車を停め、立ち入り禁止テープが貼られた事件現場の中に入ると、現場検証を指揮していたもう一人の刑事に状況を尋ねる。  「どう、遺体の状況は。何か肉片とか出て来た?」  白髪交じりで年嵩の刑事がそう聞くと、現場指揮の壮年の刑事は  「おそらく加害者であろう4人の男性の遺体の欠損部分と、被害者であろう男性の遺体の殆どはまだ見つかってないですね。  被害者の遺体は特に、殺害現場の林の中に残っていた歯周辺の上下顎と、被害者の車の下に転がっていた左目以外は発見できてません。  異常ですよ。  それでそっちはどうでした?」  「うん、駐車場入り口近くで見つかった胴体と左腕だけの遺体のスマホが最後に通話した相手の西田って奴ね。  廃棄物処理業者の息子だったけど、けっこう簡単に加害者のことは吐いてくれたよ。何か面倒なことになったから何とかしてくれって電話があったんだって。  何か高校中退して何年も半グレみたいになってる奴らだってさ。アタマあんまり良くないから単純で暴力犯罪ばっかり起こすんで、いつかこんなことになるかもって思ってたらしいよ」  「自分はアタマいいって思ってるんですかね」  「どうだろね。アタマ悪い奴とつるんでる時点でねえ。  西田の親もけっこうキナ臭いからね、ちょっと後で令状取って家宅捜索させてもらおうかなってところ」  「そうですか。こっちは遺留品の凶器の鉄パイプには顎と左目だけ残っている男性の血液型と同じ血液が検出されましたんで、ほぼここで集団暴行されて亡くなったというのは確定だと思われます。  ただ、被害男性の乗っていた車の中に、女性物のバッグがありましたが、女性の姿はどこにも見当たらないんです。  集団暴行現場に被害男性とも加害男性とも違った少量の血液痕が残っていましたから、これが同行女性のものかも知れません。  もしかしたらまだ生きている可能性もあるかも知れませんね」  「せめてそうであって欲しいよね」  そう言って白髪交じりで年嵩の刑事はポケットからハイライトを取り出し、ライターで火を着け、深く煙を吸い込みゆっくりと吐き出した。  「もっとも同行女性のバッグが車の中に残されてるってことは物取りが主目的じゃないだろうから、性的暴行されてたのかも知れないしね。  世を儚んでたりしなきゃいいけど。  ところで加害者男性たちの死因はどう? わかりそう?」  「死因は失血死、或いはショック死でしょうね。  ただまあ遺体の切断面は、どうやって切断したのか皆目見当もつきません。  えらく鋭利な物で断ち切られているんですが、まるで何かが噛んだみたいにアーチ状のカーブになっているんです。  熊にでも襲われたんじゃないかって捜査員が軽口を叩いてましたが、どれだけ巨体の熊なんだって話ですしね」  手に持ったハイライトの煙が立ち上り、午前中の緑地公園の空気に揺れながらふわりと溶け込んでいく。  その様を見るともなしに見ながら、白髪交じりで年嵩の刑事はポツリと言った。  「頭の悪いガキが、餓鬼に食われちゃったのかも知れないねぇ」  がき 餓鬼      おしまい  ※事件被害者の方のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
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