230人が本棚に入れています
本棚に追加
第1章 安西航 1
11月初旬―
「ったく…今日も興信所の依頼はなしか…」
航は口をとがらせると、事務所の入り口にかけてある手作りの木の札をopenからclosed に変更すると事務所に戻り、うち鍵をかけた。
「まぁいきなり沖縄にやってきて興信所を開くこと自体無謀だったか…」
事務所に置かれた黒い合皮製のベンチ型ソファーにゴロリと横になると、航は窓の外を眺めた。窓にかけられたブラインドは開け放たれ、沖縄の美しい夜空に輝く星々が見える。
今の時刻は19時。事務所は朝の9時から開けてあるが、その1日の大半は航はこの事務所にいる事は無い。何故なら興信所以外に便利屋の仕事も併用しているからだ。
メールや電話1本で、自分に出来る範囲の仕事ならどんなに遠くても、たとえどんなものでも引き受けて、依頼を達成してきた。
例えば害虫駆除であったり、網戸の張替えから時には代わりに海に行って魚を釣ってきたこともある。航はオールマイティーな人間だったのである。
最近は航の仕事ぶりが話題になり、口コミで少しずつ便利屋の依頼が増えてきたが、肝心の本業である興信所の仕事はまだ1件も入ってきたことは無い。
「いっそ本業を廃業して便利屋一本でやっていくか…」
しかし、首を振ってすぐにその考えを否定した。
「いや、駄目だ。父さんの反対を振り切って、沖縄までやってきたんだ。これで興信所の仕事を諦めて便利屋家業になった事を知られた日には、ほれ見たことかって馬鹿にされるに決まってるっ!」
それに興信所をやめたくない理由はそれだけでは無かった。その理由は朱莉である。興信所の仕事をしていなければ航は沖縄に来ることも、朱莉に会う事も無かった。
朱莉に失恋した直後は絶望の日々で、一時は発作的に上野の興信所のビルのてっぺんから飛び降りてしまおうかと思ったこともあった。しかしその度に朱莉の悲しむ顔が脳裏に浮かび、衝動を抑え込めてきたのだ。
あの当時の自分は随分やけになっていたが、同じ苦しみを分かちあう琢磨がいたお陰で、徐々に失恋の痛手から立ち直っていけたのである。
あの当時の航は朱莉になんか出会わなければ良かったと自分の運命を呪った。初めから出会うことも無ければ、身を引きちぎられそうな悲しい目にあう事は無かったのだ。心の傷はなかなか癒える事は無い。けれど一月が過ぎ、二月が過ぎ…三月目が過ぎた頃から、航の時はようやく動き始めた。そして沖縄で独立しようと決めたのもこの時期なのであった。
その後の航は今まで怠惰に生きていた頃とは見違えるように精力的に活動を始めた。ネットで沖縄の安い空き店舗を探しだして賃貸契約を結び、その後航は沖縄に飛び、半月ほど事務所兼居住区にする為に奔走した。リサイクルショップで家具家電を買い集め、事務所と人が住める空間を作り出し、正式に沖縄へ移り住んできたのがほんの1カ月ほど前の事なのであった。
「朱莉…元気にしているかな。きっと今頃は結婚式の準備で忙しいんだろうな」
琢磨の話では朱莉は11月15日に修也と結婚式を挙げるらしい。朱莉がウェディングドレスを着て修也の隣に立っている姿を想像すると、航の胸はキリキリと痛んだ。
「ハハ…いまだに朱莉を思うとこんなに胸が痛むなんて…我ながらこんなに未練がましいとは思わなかったぜ…」
航は自嘲気味に言うと、突然空腹感を覚えた。
「カップ麺でもたべるか…」
寝そべっていたソファから起き上がると、航は事務所の中についている給湯室へ向かい、まずは戸棚を漁った。
「参ったな。まさか…カップ麺が無くなってるなんて」
航は舌打ちすると、デスクの引き出しから財布と家の鍵をポケットにねじ込んだ。
そして明かりを消して事務所を出た航はドアにカギを掛けると夜の沖縄へと足を踏み出した―。
最初のコメントを投稿しよう!