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松永に坂本と呼ばれた男は、部屋の扉を閉めると、テーブルの横に歩みよった。
害のなさそうな顔をしている。よく言えば他人に警戒心を抱かせない顔だった。その実、凡庸で埋没しそうな顔と体型。雪也よりも背は低そうだ。しかしその目は知性に輝き、侮れない何かを秘めている。
昨日撮影スタジオにいた男だと思い至った。
何故か今は、口の中に砂糖をざらざらと詰め込まれたような顔をしていたが。
「……契約書を持って朝に部屋を訪ねるように言ったのは誰です?」
「……俺だ」
気圧されている松永を見て、雪也は目を丸くした。
坂本の見た目からは想像できない光景だった。
雪也が困惑から動けずにいると、不意に坂本がこちらに意識を向けた。
テーブルの横に立っていた松永を押しやり、イスに座った雪也の前に歩を進める。
びくり、と雪也の体が硬直した。
「昨日は撮影に応じていただきありがとうございました。フォーシーズン副社長の坂本義人です。……雪也とお呼びしても?」
「へ? っはい、雪也です、よろしくお願いします」
物腰柔らかく話しかけられて、雪也はがたりと音を立ててイスから立ち上がった。
「そのままで結構です」
坂本は笑顔で雪也をイスに戻すと、正面のイスを引っ張ってきて雪也の横に座る。
「おい、俺のイス」
「そのままで結構です」
顔にお前は立ってろと書いてあるのが見えた気がして、雪也は軽く目を瞬かせた。
諦めたようにため息を吐いた松永が、キッチンカウンターに寄りかかる。
坂本は話を続けた。
「雪也、これが昨日の撮影の契約書です。事後になってしまい申し訳ありませんが、お渡ししておきます」
坂本がケースから一枚の書類を取り出して雪也に差し出す。
文字がたくさん書かれたそれを一瞥して、雪也は坂本へ視線を戻した。
「出演料はこの封筒に。ご確認ください」
テーブルの上に差し出された封筒を手に取る。
中に収められた紙幣に、雪也は思わず声を上げた。
「こ、こんなに?!」
「今後のことを考えて多めに出させていただきました」
雪也はただ、松永を助けたかっただけだ。
自己満足のその行動に、金銭を貰うなど。
「……俺は、お金なんて」
「雪也、当社の所属タレントになる気はありませんか?」
坂本は更に一枚の書類を取り出した。
「雇用契約書です。あなたをスカウトします」
「……昨日撮影してみて、お前が欲しいと思った。これはあの場にいたスタッフの総意だ。……それに……何よりも俺が、お前を欲しい」
松永の真剣な目が、雪也を射抜く。
雪也は呆然と松永と書類を交互に見つめた。
何が書かれているかはわからない。何を言われているのかもあまり理解出来ていない。それでも、自分が松永に乞われているのはわかった。
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