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仕事に行く、と雪也を部屋に残して自宅を出た松永は、傍らでにやにやと笑みを浮かべる坂本をじとっと睨みつけた。
「睨むことないでしょう。協力してあげたのに」
「お前な……」
坂本の手の内にある一枚の書類。
文字列が終わった最後に、お世辞にも綺麗とは言えない字で「ゆきや」とサインが見える。
契約内容を変更すると提案した時にはすでに準備があった。
用意周到すぎて、自分の腹心ながら呆れが先行する。
「社長の初恋を応援しようという健気な副社長兼優秀な秘書の何が不満なんです?」
「初恋とかいうな。三十路すぎの男が恥ずかしい……」
松永は坂本の口調に頭を抱えて項垂れた。
「でも否定しないじゃないですか。好きになってしまったんでしょう?」
揶揄うでもなく告げられた言葉に、うっ、と息をつめる。
社長としての威厳も何もあったもんじゃない。
当の坂本は、階下に降りるエレベーターを呼び出しながら、書類を鞄にしまっていた。
「どうりで妖艶な美女にも淫乱な美少年にも靡かないわけですよ。社長が求めていたのはゴールデンレトリバーの癒やしでしたか」
「……その例えはやめろ。想像するだろ」
松永は、自分の言葉に一喜一憂する雪也に犬耳と尻尾が生えているのを想像して耳まで顔を赤くした。
肯定しているも同然の状態に、羞恥を覚える。
いや、断じて違う。
可愛いとは思う、思うが。
雪也は、自分の商品なのだ。
自分の心に芽生えた感情を恋と明言するには、松永は大人になりすぎていた。
「……初恋も拗らせると厄介だと言いますし、こっちも面倒なので、早くくっついてくださいね」
「本音はそれか」
坂本が面倒を顔に書いているのを横目で見て、松永はエレベーターへ乗り込んだ。
閉じるを連打して、坂本を空間から切り離そうとする。
失敗。
降下する間、坂本は無言で松永を見つめていた。
「あなたが、私が結婚した時に砂を吐きそうな顔になっていた理由がようやくわかりました」
マンションに横付けされている車に乗り込む。
坂本が恋人といちゃついているのを見せられた時の気持ちを思い出して、理解したくないのに坂本の心情を理解した。
「……でも、気をつけてあげてくださいね」
何に、と問わずとも雪也のことだろう。
不安に揺れる瞳と、へらへらと幸せそうに笑う顔が、松永の心を騒がす。
何か言いたげに開いては閉じる唇。
自分の本当の名前も明かさなかった。
ふらりと松永の前に現れた時を思い出す。
何か、目的があったはずなのに。
松永の役に立つことが、幸せであると、身体中で表現して。
「まさか美人局じゃ無いよな?」
「あなたは馬鹿ですか」
坂本がゴミ屑を見るような目で松永を睨め付ける。
茶化しただけだ。わかっている。
少なくとも、雪也の好意に嘘はなかった。
「……わかってるよ。わかってる」
馬鹿な俺は、これを恋と呼ぶのが怖いんだ。
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