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「戻ったぞ」
松永が職場から戻ったのは日付を回りかけた時刻だった。
出演タレントの傾向を大幅に変更したことの謝罪に始まった今日。
先方にデモを送り、父親との会食を無理やり昼に決行した松永は、多忙を極めた一日を満足気に振り返った。
父親との会話で機嫌を良くした昼。
その数時間後には、松永の電話は鳴りっぱなしだった。
雪也の痴態を、先方がいたく気に入ったからだ。
紹介しろ、撮影させろ、と鼻息荒く食いついてくる先方の担当者を、試用期間中だと断るのは非常に骨が折れた。
正確には松永個人への所属となるため松永の裁量次第でどうにでもなるのだが、松永は他社に雪也を貸し出すことは、心情的に許せなかった。
(俺の、雪也だぞ)
それが独占欲であるとは、まだ松永は気付いていなかった。
「おかえり〜」
真っ暗なリビングを駆け抜けて、雪也が松永を迎える。
へらへらとした笑顔はそのままに、雪也は松永の手からコートを受け取った。
「起こしたか、すまなかった」
「んーん、起きてたよ」
リビングの灯りをつけながら雪也を追い越すと、部屋の温度の低さに驚く。
「寒いな、暖房くらいつけていいのに」
「え、えと……ごめんなさい」
雪也の体を心配した一言であったが、雪也は目に見えてしょんぼりと肩を落とした。
頭に伏せた犬耳を幻想して焦る。
松永はテーブルの上のリモコンを取って暖房のスイッチを入れた。
「いや、その、寒かっただろ。俺も帰ってきた時は暖かい方が嬉しい」
「……うん、次からはそうするね」
雪也がじっとリモコンを凝縮して、次の瞬間にはへらへらとした笑みを浮かべる。
ほっと安堵して、松永は雪也の頭を撫でた。
雪也が嬉しそうに目を細める。
その手を堪能して、雪也は満足したように、コートをハンガーにかけるために松永の傍を離れた。
「ん? 雪也、お前……飯食わなかったのか」
「え?」
朝出た時のまま、テーブルの上に鎮座する札束を見とめて、松永は訝しげに眉を顰めた。
松永は自炊をしない。故に冷蔵庫に食材を入れてはいなかった。
メシ代にと置いていった金は手付かずのままだ。
ここにきて松永は、雪也が自分の指示なしには何も出来ないのではないかと思い至った。
「ハウスキーパーでも雇うか……」
雪也を社宅に住まわせる発想は松永には無い。
雪也に家事をさせることも出来たが、雪也のその能力を想像するに難しいだろう。
(資産家の息子か? 名前を名乗らないことを考えると有名どころの可能性もある。いや、それにしては……)
坊ちゃん育ちが部屋の暖房も付けずに食事もせず一日中家にいることがあるだろうか。
いずれにせよ身辺調査はした方が良さそうだ、と松永は戻ってきた雪也を見つめて小さくため息を吐いた。
「飯食うぞ」
スマホを取り出して出前のサイトを開き、適当に弁当を注文する。
30分後には届きそうだ。
興味深そうにその様子を見る雪也に、松永は風呂には入ったのか、と尋ねる。
飯の心配をしていたのに、急に話題を変えた松永に困惑した様子を見せた雪也だったが、今度は一変して笑顔で返事を返した。
「うん! シャワーして、準備はした〜」
「準備ってお前……」
何の、と聞くのは野暮だろうか。
嬉々として服を脱ごうとする雪也を手で静止して、松永は頭を抱えた。
「いや、嬉しいが、そうじゃなくて……俺はお前をどうこうする気は……」
「?」
松永は雪也を抱くつもりはなかった。
結果として恋人になるなら別であるが、昨日出会って今日……というような関係になる予定はない。
松永に街中で声をかけたことに始まり、急な撮影への対応力、そして自分の身を顧みない態度に、松永は雪也の貞操概念の低さを再度思い知った。
「いや、シャワー浴びてくる」
松永は一旦考えを放棄して浴室に逃げることを選択した。
雪也が寝室に駆けていくのを横目に見て、深くため息を吐く。
少なくとも体に灯った熱を治めるために、自分を落ち着かせる必要があった。
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