契約

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 高層ビル群の一角に、松永の営むフォーシーズンは位置していた。  シンプルなエントランス。  観葉植物が綺麗に配置されたそこに、グレーのスーツを纏った青年が溶け込んでいた。 「おはようございます。社長、雪也」 「おはよう」 「お、おはようございます〜」  腰を折った坂本の挨拶に、松永が手を挙げて応える。雪也は坂本につられてぺこりとお辞儀をした。 「みんなお待ちかねですよ」 「おまちかね?」  笑顔の坂本がゆっくりと雪也の手を引く。  社員用の出入り口を潜った松永が扉を押さえ、雪也を室内へ招き入れた。 「逆じゃないか……?」 「エスコートは慣れた者に任せた方が絵になるでしょう?……それに、アピールも大事ですし」 「アピール?」 「妙な虫が付くのは本意ではないでしょう? あなたが雪也のために扉を開ける意味を理解しない社員はいません」 「……確かにな」  松永が呆れと感心を混ぜたような顔でため息を吐いた。  雪也は一度松永を見つめ、会話の意味を理解することを放棄する。  室内に目を向けると、室内の誰もが自分を見ていた。正しくは、雪也と松永を。 「?」  視線の多さに思わず首を傾げる。  対応に困り、雪也は坂本の手を離して松永の背後に隠れた。 「かっかわ……っ」  目の前の女性社員が顔を赤くして慌てている。  松永を見上げると何故か松永の顔も赤くなっていて、困惑した雪也は坂本に視線を移した。  その坂本から呆れたようなため息が返ってくる。 「みなさん、先日の撮影の救世主、雪也です。昨日正式に契約をしました」  坂本に促され、一歩前へ出る。 「えっと、雪也です! よろしくね?」  雪也は目を彷徨わせながらも笑顔を貼り付けた。  途端に鳴る歓声。  拍手で迎えられて雪也は些か戸惑った。 「撮影のない時は、ここで事務作業を手伝ってもらおうと思う。よろしくな」  松永は雪也の肩に手を置いてフロアを見渡した。  その中から坂本が一人の青年を連れてくる。 「雪也。水森篤史(ミズモリ アツシ)くんです。うちの所属タレントの中で一番の売れっ子ですから、いろいろと教えてもらってください」 「篤史です。売れっ子っていうか、古参なだけだけどね。評判聞いたよ! よろしくね」  水森は穏やかな雰囲気を纏った小柄な人物だった。  少年と呼ばれても遜色ない童顔に、物腰の柔らかな純粋さが前面に出ている。  雪也より背の低い坂本よりも更に小柄だ。  三十手前と聞いて雪也は素直に驚いた。 「よ、よろしくお願いします!」 「はは、可愛いなぁ。これで色っぽいなんてずるいよね。僕も引退かな〜」 「お前にはまだ稼いでもらわんと困るんだが」 「わかってますよ。天職ですもん。それに、葵の分も稼がないと」  葵。  その名前が出た瞬間、フロアが一気に凍りついた。  松永と坂本の機嫌が降下したのがわかる。  水森はしまった、と顔に書いて、雪也の手を引いた。 「まずったな……雪也、ユキくんでいっか。あっちでお話ししようよ」 「う、うん」  疑問を抱く暇もなく、雪也は水森に連れられてフロアを後にした。
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