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ことの起こりは今から二時間前。
松永は、とある映像制作会社の社長であった。
父から譲り受けた会社の一つであるそれは、大手他社に比べると宣伝規模こそ劣るものの、大手に負けないクオリティーの高さを売りにしていた。
映像制作会社ではあるが、タレント事務所も兼ねた中小企業である。
所属タレントの数は少ないが、その一人ひとりがある程度のファンを抱えていることで、事業の運営も円満に行われていた。
組織の規模が小さいが故に、社長である松永がすべての現場に率先して関わり、社員全体で一つの作品を作り上げている。
およそ週の半分を占める撮影と編集生活でも、松永は充実した生活を送っていた。
今回の企画は、大口の取引だった。映像の販売先である取引先の看板を掲げることにはなるが、撮影の委託先として申し分ない利益が上がる。
顧客との打ち合わせに松永自身も関わり、半年かけて調整した大掛かりなプロジェクトだ。
入念な打ち合わせの末に、今日を迎え、滞りなく撮影が為されるはずだった。
そう、はずだったのだ。
わずか二時間前までは。
今日の撮影はシリーズもので、一作目は自社で行い、二作目を取引先が、三作目は合同で撮影を行う予定である。
その一作目の撮影が今日だった。
自社からは三人のタレントが参加する。
一人ずつの撮影が三回。二人目までは支障なく進んだ。そしてメインである三人目になって突然の問題発生。
タレントが控室から失踪したのだ。
撮影が終わっていた他のタレントに、少し散歩に出るとだけ伝言を残して。
(荷物全部持って散歩だとか、意図的としか思えねえんだが)
社員からの電話連絡を受けた松永は、父親との会食を蹴って街へと駆け出した。
撮影開始直前の失踪であったことから、そう遠くに行ってはいないだろうという予想で探しに出たものの、一向に見つかる気配がない。
そればかりか無駄に時間だけが経過し、松永は心底焦っていた。
今日中に撮影を終わらなければ納期に間に合わない。
しかし、代役を立てようにも、代わりになるようなタレントに限って連絡が通じない。
所属タレントが少ないことと、後々の撮影を考えて、こぞってオフを申し付けてしまったことが仇となったのだろう。
社員総出で他社のタレント事務所へあたっているが、結果は芳しく無い。
そんなこんなで、松永は非常に焦っていた。
今日が終わるまで後三時間。運よく代役が見つかるなり、逃げた奴が戻って来るなりしない限り撮影は間に合わない。
納期が遅れれば会社の信用に関わる。プロジェクトも初回で頓挫する。それだけは避けたかった。
(いっそのこと社員の誰かを出させるか……? いや、無理があるか)
(どうしろってんだ!)
三十を回って数年。未だかつてこんなにも懊悩したことがあっただろうか。
諦めるしかないのか。そんな思いが松永の頭にふっと湧いて出る。
携帯電話をポケットから取り出し、着信履歴とリダイアルを表示する。
父親からの着信はこの際無視。何を置いても大事な約束ではあったが、それどころではない。
顧客か、社員か。
松永は電話を掛けようと機器を操作しようとした。
その時だった。
「ねえ」
「!」
気配もなく掛けられた声。
松永は携帯をしまって、路地の暗がりを凝視して身構えた。
コツコツと足音が近付いてくる。
「……誰だ」
声に威嚇を乗せるのも忘れない。
このタイミングで厄介ごとは勘弁してほしい。
足音の主は低く発せられた松永の声色を物ともせず、ゆっくりと姿を現した。
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