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「だあれ?」
可愛らしい声でもう一度尋ねられたが、その頃の雪也には答えられる名前がなかった。
大人の男以外の人間を見たことのなかった雪也は、それにも戸惑い、なんと言葉を掛けていいのかもわからない。
「もしかして、ざしきわらし?」
少女は小さく言葉を紡いだ。
意味が理解できずに首を傾げる。
「ここに住んでるんでしょ?」
雪也は躊躇いがちに、こくんと頷いた。
「わたし、しってる!」
少女の言葉にどきりとする。
何を、知っているのだろう。
もしかしてこの少女も、自分の役目をわかっているのだろうか。
「ざしきわらしって、おうちにしあわせを、くれるんだって!」
それならば雪也にも理解できた。
だから、雪也も明確に肯定を返す。
少女は自分の推測が当たって嬉しいのか、ぱあっと顔を輝かせた。
「ざしきわらし、ほんとうにいたんだ!」
少女が呼んだざしきわらしとは、きっと自分のことなのだろう。
雪也のような身の上を、世間ではそう呼ぶのかもしれない。
自分が男とセックスをすれば、家が幸せになると、父親は言っていた。
きっとそれがざしきわらしだ。雪也はそう理解した。
しかし、雪也が家の幸せのためにしていることは、世間ではあまり良いことではないのを、雪也はなんとなく理解していた。
雪也を抱く男たちは、何も知らない雪也にそれとなく知識を与えた。
読み書きは出来ないが、最初のころよりは大分賢くなったと思う。
だからこそ、雪也は理解した。
少女を、ここに長居させてはいけない、と。
「みはるー?」
その時、遠くから綺麗な男の声が聞こえてきた。
どうやらこの少女を探しているらしい。
だんだんとこちらに近付いてくる。雪也は焦った。
そして冷静に考えた。
雪也は少女を手招く。
少女は屈んで、窓に近寄った。
「俺は、大人に姿を見られると、駄目なんだ〜。この家から出ていかないといけないの。君にも、君の大好きな人にも、幸せをあげられなくなっちゃう」
「えっ、みはるも、おにいちゃんも、しあわせじゃなくなっちゃうの……?」
少女はしょんぼりと眉を下げた。
雪也はそっと笑顔を顔に貼り付けた。
「そう。だから……俺に会ったことは、内緒、ね」
窓越しの少女の唇に人差し指をあてながら、諭すように言葉を紡ぐ。
少女はこくん、と頷いて、そして静かに遠ざかった。
「もう、来ちゃ、駄目だよ」
そして、少女が駆けて行った先に、雪也は運命を目撃する。
「みふゆおにいちゃん!」
少女に呼ばれた青年は、くるりと振り返って少女を抱き上げた。
そこには幸せな兄弟の抱擁があった。
そして、雪也は理解した。
あれが、自分の兄。
そして、自分の妹。
あれが、自分が生きている理由だと。
あれのために、自分は生きているのだと。
あの幸せを、自分が守っているのだと。
会ったこともないのに、愛しさが胸に溢れた。
守っているものの尊さに、涙が出て止まらない。
見えなくなった気配に、雪也は、誓った。
(もっと淫乱になろう)
一目だけ見たギリシア彫刻のような横顔に思いを馳せて、雪也はそれからの時を過ごした。
そして、松永……美冬と再会したあの日。
雪也はあの近くのホテルにいた。
ひとしきり男に抱かれ、ベッドに横たわって息を整えていた時、雪也は聞いた。
父親の、雪也を譲り渡す、という話を。
雪也は絶望した。
あの家から、あの部屋から出てしまっては、美冬の力に、なれない。あの愛しい兄弟のために、なれない。
そして、雪也は逃げ出した。
父親と男が話し込んでいる少しの隙を付いて、雪也は美冬に、出会った。
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