プロローグ

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 撮影スタジオは重い沈黙に包まれていた。  順調に行われていた撮影。途端に狂わされたスケジュール。  立ち会いの社員だけでなく、手配した照明スタッフも、ヘアメイクも、スタイリストも、カメラマンも、みな疲弊の表情だ。    社長の松永が出て行ってから、すでに一時間と少し。社員とスタッフの苛々もピークであった。  副社長兼秘書である坂本義人(サカモト ヨシト)もその一人である。  坂本が松永とともに会社を率いて数年。  副社長として何度も現場に立ち寄ったが、ここまで空気が悪くなるのははじめてのことだった。  松永が経営しているのはゲイ専門のアダルトビデオ制作会社である。  松永本人も坂本もゲイというわけでもなかったが、一つの作品を作り上げるということに関しては、誇りを持っていた。  大学で知り合ってから、坂本は松永のカリスマ性と経営の手腕に一目置いている。心酔していると言ってもいい。  だからこそ、今回の所属タレントの裏切りとも言える行為は坂本の腑を煮えたぎらせた。  ゲイ専門のアダルトビデオ制作会社〈フォーシーズン〉  坂本は会社や商品に対して確固たるプライドがあった。  フォーシーズンには所属タレントとして八系統のネコ男優と八系統のタチ男優がいる。  依頼に応じてタイプの違う男優をプロデュースして映像を撮るのが仕事の大筋だ。  規制の波や乱立する競合に呑まれながらも、今日までに会社を成長させてきたのは、松永と坂本の情熱故だった。  その中で時間をかけて組み立てた大口プロジェクト。  一作目の撮影は〈オナニー三本勝負〉だった。  企画の大筋自体は、どこにでもある平凡なものだ。しかし、今回は購入者のニーズを最大限に取り入れるために嗜好調査を入念に行い、演出にもコストをかけた肝いり作だった。  その上、取引先で撮影する二作目、合同で撮影する三作目にも当社のタレントが総出で出演することになっている。  社員の誰もが関与する、全社で作り上げたと言っていもいい作品の一つだった。 「……なのに、あの野郎」  坂本は元凶の顔を思い浮かべて、更に機嫌を一段下げた。  話し合いを重ねた末、一作目のメインキャストを選んだのは松永だった。  平凡系と美少年系のネコ男優、そして小悪魔系のネコ男優、葵ゆうま(アオイ ユウマ)。  これがかなりの曲者だった。  所属タレントの中で一番人気の小悪魔系から、最近売れ始めた若く顔の良い男優を起用したのだが、まさかこれが仇となるとは。  葵はたしかに顔は良かった。しかし、悪く言えばそれだけで、それを上回る傲慢さと我儘気質で、現場を引っ掻き回すのが得意な所謂じゃじゃ馬だった。  このタチ男優は嫌だ、もっと可愛いバイブが良い、シーツが気に入らない、などとにかく注文が多い。  しかも面接に来た時にはそれこそ大きなネコを被っていて、松永も坂本も採用後の変わりように頭を抱えたほどだ。  しまいには撮影ボイコット。  葵一人がいなくなった所で何も困らないが、いなくなったのが今日というのが腹立たしい。 (戻ってきたところで、二度と使ってなどやるものか)  坂本からの黒い気配を感じたカメラクルーが短い悲鳴を上げたのを見て、その場の誰もが一瞬だけ葵に同情した。一瞬だけであったが。
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