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今は昔のことにございます。
尊きお方に代わり、政を取り仕切った者達。所謂、摂関家と呼ばれる立場を独占する一族がございました。
その一族に、ある日、まさに国の宝と呼んでもさしつかえがないような、珠のような姫様が御産まれになったのです。
母君様が姫をお産みになる朝、雫が落ちる音を聞いたと仰られたところから、『朝露の雫姫』と名づけられたその姫君は、成人を迎えたことを他氏に示す『裳着の式』を迎えるお歳になった頃には、家中はもちろん、姫のお姿を見たことがない市中にまで、いったいどちらの殿方に嫁がれるのだろうという噂が絶えぬほど、お美しく成長なされました。
「まあ、これが全て私への贈り物でございますか?」
雫姫が思わず立ちあがり、目をまるくして目の前に積まれた宝の山をご覧になられると、隣にお座りになられていた父君様が鷹揚に頷かれます。
「ああ。その通りだとも、雫。雫の裳着を祝い、他家がこれほどまでの品を送って寄越したのだ。これがまさに我が家と雫の、この国における力であり価値なのだよ」
「はぁ・・・」
父君様は自慢げに仰いますが、この屋敷から外にでたことのない雫姫は、その量と積まれた宝の輝きに、ただただ驚くばかりでございました。
「ミ~」
「あら?」
雫姫が耳ざとく、小さくか細い鳴き声を聞きつけ、その声のした方へと歩み寄ります。
宝の山の端に、小さな竹籠がちょこんと置かれており、なんとその中には、まだ生まれてからそれほど時が経っていないと思われる、全身黒毛の子猫が一匹入れられていたのでした。
「なんと! まさか贈り物の中に、そのような畜生がまぎれこんでおるとは・・・」
父君様が顔をしかめて立ちあがります。
雫姫は父君様の意図をすぐに悟り、竹籠ごと子猫を抱え込み父君からお隠しになりました。
「こ、これ、雫。それをこちらに寄越しなさい」
「いやです。これは私への贈り物だと仰っていたではありませんか。この子は私が育てます」
「いや、しかしだな」
「駄目で・・・ございますか?」
雫姫が、今にも泣き出しそうなお顔で父君様を見上げます。
まさに目にいれても痛くない程に溺愛している姫君に、このような顔をされては胸が痛くなる。宮中で我が物顔をされている父君様といえども、こうなっては降参せざるをえません。
父君様はひとつ大きく息を吐かれると、苦笑しつつ仰いました。
「いたしかあるまい。女房どもにはわしから申しつけておく。ただし、あとで紐ををつけた鈴を持ってこさせるゆえ、どこにいてもわかるように首に巻いておくのだぞ」
「はい。父上様」
雫姫が春の花のような愛らしい笑みを見せると、父君様は満足そうに頷き、宝が積まれた部屋から出ていかれました。
父君様の足音が遠ざかると、雫姫は早速竹籠の蓋を外し、中から子猫を抱き上げます。
雫姫が子猫をご自身のお顔に近づけますと、子猫は嬉しそうに顔を雫姫のほほにこすりつけてまいりました。
「ミ~」
「うふふ。可愛い」
雫姫は、子猫をいったん顔から離すと正面から子猫と向き合い、その澄んだ瞳をじっと見つめます。
「お前は昼でも夜のようね」
子猫を抱き寄せ黒毛を撫でながら雫姫は呟かれ、それから少しばかり考え込まれると、やがてにこりと微笑まれ声をあげられました。
「決めたわ。お前の名前は常夜にいたします」
雫姫は常夜を抱え上げると、その場でくるりくるりとお回りになられる。
「うふふ、常夜、常夜、常夜」
はしゃぐ雫姫の声に合わせるように、常夜もミ~ミ~と明るい声をあげます。
その時でございました。
カタリ
一人と一匹の至福の時を遮るように、宝の山からなにかが倒れる様な音が聞こえてきたのでございます。
雫姫は動きを止め、常夜と共に宝の山を凝視なされました。
「フー」
常夜が毛を逆立て身をよじらせ雫姫の手から逃れると、上手に床板に着地し、宝の山の中へと潜り込んでいきます。
「常夜! 危ないわ、戻っていらっしゃい」
雫姫の心配する声に応え、宝の山から飛び出してきたのは常夜ではございませんでした。
赤・青・黄の三色の紐がついた一本の扇子が雫姫の足元に転がったのです。
雫姫が、根元から伸びた紐で、幾重にも巻かれて閉ざされていた扇子を拾い上げられました。
そして、紐を解きほどき扇子を開かれる。
「まぁ、綺麗」
そこに描かれていたのは夜空。一つの月とたくさんの星々が散りばめられた、深い深い夜空。
「ミャ! ミャ! ミャ!」
いつの間にか雫姫の足元にまで戻ってきていた常夜が、扇子から伸びる三色の紐の束を、その小さな前足でぱしりぱしりと叩いていたのでございます。爪もたてているようで、紐が少しばかりほつれておりました。
「あら」
それに気がつかれた雫姫は扇子を閉じ、元のように三色の紐を扇子に巻きつけると、それでもまだ常夜が跳び跳ねれば届く位置でぶらぶらしている紐の束を、ほんの少し引き上げられます。紐に跳びつく常夜の前足が空振る。それでも常夜は諦めず、何度も何度も紐に跳びかかるのです。
「なんて可愛いのかしら」
微笑ましいその様子を堪能していらした雫姫でございましたが、ふと部屋の様子がおかしいことに気づかれました。いつの間にか部屋が薄暗くなっていたのです。
驚かれた雫姫は縁側まで出て外をご覧になりました。なんとすでに陽が傾き、山の向こうに沈もうとしていたのでございます。
「……嘘」
雫姫が父君様に連れられて、贈り物が積まれたこの部屋に入ったのは、陽が最も高い所に到達する少し前。雫姫の感覚では、それから一刻も経っていないはずなのです。
身動きひとつできずに呆然と空を眺める雫姫の足元では、まだ常夜が三色の紐の束に向かって跳びかかっておりました。
そして、扇子から伸びたソレは、今度は器用に常夜の爪をかわしていたのでございます。
夕餉をお召しあがりになられた後のことにございます。
雫姫はご自身が体験されたことを、父君様や母君様はもちろん、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる女房たちにも、お話しにはなりませんでした。
「夢中になっていただけと言われてしまうわよね」
ご自身の部屋に用意された寝具の上にちょこんと座り、ため息をおつきになる。
「……常夜。お前はいったい何者なのかしら」
雫姫の膝の上で丸くなっていた常夜は、名前を呼ばれたと思ったのか、首につけられた鈴をならし、雫姫を見上げてきます。その瞳の中では、切燈台の炎がゆらゆらと揺れておりました。
常夜と出会い戯れていた一刻にも満たなかったはずの時。ですが、宝の置かれたあの部屋の外では、三刻あまりも時が経っていたのでございます。当然のことながら、雫姫はこれまでそのような体験をしたことはございません。
雫姫が、今回の不思議な体験をした理由として思い当たるのは、足元で扇子から伸びた紐と戯れている常夜の存在だけだったのです。だからこそ、誰にも相談することができませんでした。父君様に我儘を言って飼えることになったのに、迂闊なことを言えば、常夜が取り上げられるのは必定。それは雫姫の望むところではなかったのでございます。
考え込む雫姫を見上げていた常夜でございましたが、退屈になったのか、小さな欠伸をひとつ。
先程まで、雫姫が小さな葛籠にしまった扇子をなんとか取り出そうと、悪戦苦闘しておりましたので疲れたのでございましょう。結局葛籠の蓋を開けることかなわず、こうして雫姫の膝の上で丸くなった次第にございます。
「もう! 私がこんなに悩んでいるのに!」
雫姫がそう言って頬を膨らませますと、常夜は雫姫の膝の上でコロンと転がり、まるで雫姫をなだめるように、無防備なお腹をさらし、つぶらな瞳を雫姫に向けてまいりました。
そんな愛らしい姿に、雫姫は頬をくらませたままでいることはできず、微笑んでその柔らかいお腹を優しくお撫でになり、常夜は心地よさそうに目を閉じて、雫姫に身体を預けたのでございます。
雫姫はそのままお腹をなでながら、今日一日を思い返されました。考えてみれば、時が知らず知らずのうちに過ぎ去ったのはあの時だけ.。
一度自室に戻り、常夜がいたずらしないように、小さな葛籠に扇子をしまった後、餌を与える為に調理場へ連れて行った時も、鈴をつけた姿があまりに可愛らしく、抱きかかえて皆に見せて回った時も、楽しさのあまり時が過ぎるのが早いと感じはしても、異常を感じる程ではなかったのでございます。
(それにあの時も、時が早く進んだというだけで、害があったわけではないし……こんなに可愛いのだもの。妖でもかまわないわ。うふふ)
「でも、寝ずに朝を迎えてしまうのは良くないわよね」
そう仰って、常夜を優しい手つきで枕元に横たえますと、切燈台の灯りを消し、寝具の中へお入りになられたのでございます。
雫姫が横になられて、それほど時が経たぬうちに、雫姫から規則正しい寝息が聞こえてまいりました。そして、それを見計らっていたかのように、文机の横に置いてありました小さな葛籠の蓋が、静かに持ち上がったのでございます。
持ちあがった蓋は少しばかり横にずらされ、そこから顔を出してみせたのは、驚くべきことに、あの三色の紐が巻き付けられた扇子でございました。
「姫様、寝たね?」
面妖なことに、扇子が口もないのに言葉を発します。
「よしよし。うんうん。本当に可愛らしい寝顔だね。
……永遠に今の姿でいられるようにしてさしあげるからね」
扇子はふわりふわりと宙に浮かび、雫姫の元へと向かう。扇子は紐を巻き付けたまま雫姫の胸元へと忍び込もうといたしました。
パシリ。
軽快な音が響き、扇子は雫姫から離れた床板に叩きつけられる。
「くそっ、まだ起きてたのか馬鹿猫!」
常夜でございました。
黒い毛を全て逆立たせ、牙を剥きだし、扇子と雫姫の間に立ち塞がったのでございます。
「まったく。お前も姫様が好きなんだろう? だったら、姫様にいまのお姿のまま過ごしてもらったほうがいいだろうがよ」
「フーッ!」
一歩も引く様子のないその姿に、扇子はため息をついたようにございます。
「わかった、わかった。今夜はもう諦めるよ。……どうせ明日になれば、姫様の方が俺を使ってくれるだろうさ」
扇子はまた宙に浮き、葛籠へと戻ろうといたしました。
「……妖は、お前の方だったのね」
いつの間に目を覚ましたのか、雫姫の澄んだ両の瞳が、宙に浮く扇子を、しっかりと捉えていたのでございます。
雫姫は再び灯りをともし、ご自身から少し離れたところへと、扇子を座らせたのでございます。
もっとも、端から見れば、扇子が床板に置かれているようにしか見えないのでございますが・・・。
「さて……と」
雫姫は、いまだ扇子に対して敵意を向けている常夜をひざの上でなだめながら、寝所から扇子を見下ろしていらっしゃいます。
その威厳に満ちたお姿は、まだ裳着を迎えたばかりとはいえ、さすがは摂関家の姫君様と呼べるもので、扇子はすっかり萎縮している様子でございました。
「まずは名前から聞きましょうか」
「は、はい! えー、わたくし、名を『時喰』と申しまして、人の老いたくないという想いで産まれた、神と言いますか、魂と言いますか……」
「妖ね」
「……はい。妖です」
時喰は雫姫の結論に、いささか気落ちした声で同意いたします。
「それで、いったいどなたがお前をここへ?」
「まあ、贈り物の目録を確認されればすぐにわかることでございますからな。隠してもしかたありますまい」
そう言って時喰は、さる高名な貴族の名前を雫姫に告げました。
「ただ、これだけはしっかりと申し伝えておかねばなりません。あの方は、姫やこちらの家に害意があってわたくしを贈られたのではございませんよ」
時喰は真剣な口調で言葉を続けます。
「毎晩毎晩、霊験あらたかな滝までいらしては、姫様がいつまでも若くお美しくいられるようにと願っておられました。わたくし、その姿に胸打たれまして。それならばわたくしがと、お声がけをした次第でございますよ」
当時は水煙の姿であったが、姫君への贈り物としてふさわしいように、いまの姿を身につけたのだと、時喰は付け加えました。
「確かに『裳着の式』の時に、帳越しにお会いした殿方の中に、その方はいらっしゃったけれど、お会いしたのはその時が初めてだったわ。お前は『裳着の式』の時に贈られたのでしょう。時があわないのではなくて?」
「いやいや、姫は市中のご自身の噂をまったくご存知ないとみえる。よろしい。わたくしが教えて差し上げよう」
時喰は、市中で噂されていた雫姫の美しさを懇々と説明いたしました。
「それはかなり大げさだと思うのだけれど・・・」
「とんでもない! 姫は鏡もご覧になったことがないのですか。こうして実際にお会いした姫のお美しさは、噂など足元にも及ばぬほどでございますよ。
まぁ、ともかく、奥方をお持ちでない殿方にとっては、充分懸想するに値する噂が流れていたことは間違いございませんな」
時喰の話を聞き、雫姫は大きく息を吐かれました。『裳着の式』に対面なされた殿方たちが、ご自身の嫁入り先の候補となるのであろうとわかってはおられたのですが、まさか実際に対面する前から、相手に懸想されているなどとは思いもよらなかったのでございます。
「とりあえず、お前がここに贈られてきた経緯はわかりました。でも、なぜお前なのです? お前はどんな力を持っているというの?」
雫姫はその質問に、時喰がにやりと笑ったように感じられました。常夜も先ほどより、身を雫姫に寄せてきたようにございます。
「名前通りでございますよ。わたくし、それほど広い範囲ではございませんが、周囲の時を喰らうことができます。それ以外にも、限られた時間だけ、対象者に時を越えさせることもできます」
「時を喰らう? 時を越える?」
雫姫と常夜が、同時に首を捻りました。
「ええ。すでに姫様は他の方より、三刻ばかり若くなっておりますよ」
「え?」
「正確には、他の方が三刻ぶん歳をとっている間に、半刻程度しか歳をとられていないということですよ。本当はもっとしっかりと喰えたのでございますが、そちらの黒猫さんが、まあ邪魔をする。邪魔をする」
時喰が苦々しげに言いましたが、常夜は知ったことかと欠伸をいたしまする。
「つまり、お前は他の方が歳をとっていく間にも、私が歳をとらないようにできるということなのね」
「ご明察」
時喰が自慢げに返事をいたしましたが、雫姫はゆるゆると首を横にお振りになりました。
「私はそのようなことは望みません」
雫姫の言葉を聞くと、時喰は途端に声を荒げます。
「それは姫様がまだお若いからだ! 老いるということの恐ろしさをご存知ない!」
気持ちは変わらぬと、雫姫は真っ直ぐに時食いを見つめました。
「ようございます。ならば、わたくしがもう一つの力を使い、姫様に老いるということの恐ろしさを教えて差し上げましょう」
「フー!」
時喰が言い終わるやいなや、常夜が時喰に飛びかからんといたしましたが、時すでに遅く、時喰から発せられた怪しき光が、雫姫と常夜を包み込んだのでございます。
雫姫が眩さから閉じられていた目をお開きになられると、そこは雫姫の寝所ではございませんでした。
そこは見知らぬお屋敷の、見知らぬ庭で、雫姫はそこに立っていらしたのでございます。
「ミ~」
「あ、常夜!」
腕の中から聞こえた鳴き声で、雫姫はようやく常夜を抱きしめていることにお気づきになりました。
「よかった。あなたが一緒にいてくれて」
突然のことに心細くなっていた雫姫は、たいそうほっとされ、常夜のふわふわとした身体に頬ずりをされたのです。
「それにしても、ここはどこかしら?」
雫姫はまだお屋敷の外に出たことがございません。ですから、この庭がお屋敷のものでないことはすぐにわかります。
「あら、そこの可愛らしいお嬢さんはどこからいらしたのかしら」
雫姫が辺りを見回していますと、庭と面した部屋の奥から、女性の声が聞こえてまいりました。
雫姫がそちらに目を向けますと、どうやら部屋の奥でどなたかが伏せっていらっしゃる様子です。
「私はあまり動けないの。遠慮など不要ですから、どうぞこちらにいらして」
声は弱弱しいものではありましたが、とても上品な響きがありました。雫姫はしっかりと身を寄せてくる常夜を撫でながら、言葉に従い庭から女性の寝所へとお上がりになります。
「まあ、とても可愛らしいお嬢さんがただこと」
寝具の上で横になっていらっしゃったのは、年老いた女性でございました。
おそらく若かりし頃は、美しく気品に満ち溢れていたのだろう雰囲気をお持ちの方でございます。それに、どこかで会ったことがある誰かの面影も、お持ちの方でございました。
彼女は雫姫に微笑みかけてまいります。
「申し訳ないのだけれど、身体を起こしたいの。手伝ってくれるかしら?」
老女の言葉に雫姫は頷くと、上体を起こそうとする彼女の隣に座り、背中を支えるようにして起き上がるのを助けられました。
「ありがとう。嫌ね、一人で起き上がるのもままならなくなってしまって・・・。歳はとりたくないわね」
悲しげに呟く老女に、雫姫はなんだか胸が締め付けられる思いでございました。
「あなた、お名前は?」
老女の問いに、雫姫は喉まで上がって来た雫という名前を呑み込まれます。理由はわかりませんでしたが、なんだかそのまま名乗ってはいけない気がしたのです。
「……朝露と申します。この子は……星夜です」
常夜が抗議の視線を向けてきますが、目の前の老女に嘘をついたという罪悪感は、共犯者を作りだすことでなんとか薄らぎました。
「そう。朝露さんに星夜さんね。私は雫と言うの。よろしくね」
雫姫は思わず息を呑まれます。
自然と思い返される時喰の言葉。
『限られた時間だけ、対象者に時を越えさせることもできます』
まさか自分は、自分が年老いた未来まで時を越えて来たと言うのだろうか?
戸惑いながらも、雫と名のった老女をまじまじとご覧になります。
若かりし頃の美しさを想像させる名残りを残しているとはいえ、所詮は名残り。
薄くなっている髪の毛は、全て艶のない白。痩せ細った身体は張りがなく皺だらけで、所々シミも見えるのでございます。
いずれ自分もこうなるのかと思うと、雫姫は自身の心に陰が差してくるのを感じるのでございました。
「今日は暖かいわね。いつもより身体の調子も良いみたい。最近はすっかり身体が冷えやすくなってしまったものだから・・・」
普段あまり会話をする相手がいないのかもしれませぬ。老女はとりとめのない話を、雫姫に楽しげに語り続けます。
雫姫はそれをほとんど上の空で聞き流し、老女の会話に「ミ~」と相づちを打つのは常夜のみでありました。
雫姫が気にかかるのは、老女の醜くなってしまった姿ばかり。それも度々、自身の美しく伸びた艶のある黒髪や、白く透き通るような柔肌と見比べてしまうのでございます。
どんどん黒く染まっていくご自身の心に耐えきれなくなった雫姫は、なおも話し続けようとする老女を押しとどめ、叫ぶように質問をぶつけられました。
「あなた様は、もし……もしも若い頃のままでいられるとしたら、若いままでいたかったですか?」
言ってから雫姫は後悔なされました。聞くまでもなかったと思われたのです。
先程、老女は「歳をとりたくない」と言っていました。それにもし目の前の老女が雫姫の将来の姿であるならば、いま雫姫の心を埋め尽くしている暗い感情を、この老女も持っているはず。
老女は雫姫の質問に、初めはきょとんとされておりましたが、雰囲気から雫姫の質問が切実なものであると感じとられたのでございましょう。表情を引き締め、真っ直ぐに雫姫を見つめられました。
「……いいえ、思いません。私は年老いてきたことを、後悔はしておりませんよ」
老女は、急に活力を得たように背筋をぴんと伸ばし、はっきりとそう仰ったのです。
雫姫は戸惑われました.
雫姫が思われていたことと全く違う返答が返ってきたからでございます。
「なぜでございますか⁉ 先ほどは老いたくないと仰っていたではありませんか!」
雫姫は責めるようにそう仰いました。
そんな雫姫をなだめるように、老女は柔らかく微笑まれます。
「そうね。言ったわね。
フフフ。でも、それは実際に老たからこそ言える言葉なの。若い時ばかりが成長ではないのよ。
老いという言葉を使うから醜く感じるかもしれないけれど、こうして一人で動けなくなったからこそわかることもあるの。知ることができるということは、成長ではなくて?
時流れ 老いあればこそ 美しき 若き姿の 珠と映らん
ウフフ。あまり上手ではないわね。私はどうも歌に関してはあまり成長しなかったみたい」
老女は口元に手をあててころころと楽しそうお笑いになられました。
「あら、もうお別れの時間みたいね。ごめんなさい。あまり上手にお話ししてあげられなくて」
時間とはなんのことだろうと雫姫が首をかしげられると、老女が雫姫の手をお取りになり愛おしそうに撫でられます。
雫姫はご自分の手をご覧になり驚きました。なんと雫姫の手が霞のように薄れていっているではありませんか。
「これだけは忘れないで。あなたがたがそのように身を寄せ合っていられるのも、成長と言う名の老いがあればこそ。時の流れがあればこそだということを。時の流れの中には悲しきこともあるけれど、嬉しきこともある。出会いがなければ別れもないということを」
雫姫の手を握っていた、老女のカサカサとした手の感触をまったく感じなくなったかと思うと、雫姫の目の前が真っ暗になったのでございます。雫姫は見えなくなった手を身体にひき、常世をしっかりと抱きしめる感触を確認すると、身を守るように目をしっかりとお閉じになりました。
それからどれだけの時が経ったでございましょうか。雫姫の耳に聞き覚えのある声が飛び込んでまいります。
「いかがでございましたか? 時を越える旅はどうでございました? 老いるということは恐ろしかったでございましょう? ささ、早くわたくしめをお手に取られるとよろしい」
その自信に満ちた声に、雫姫はゆっくりと目をお開きになりました。
そこは間違いなく摂関家のお屋敷。雫姫のお部屋に間違いなく、雫姫は寝具の上にお座りになっていたのでございます。
変わらず床板に横になっていた時喰を、雫姫は正面から見据えしっかりと頷かれました。
「そうね。お前の言う通り、老いというのは恐ろしいものだったわ」
「そうでございましょう」
時喰が、我が意を得たりと満足気に声をあげました。
しかし雫姫は、言葉とは裏腹に、恐れている様子は少しもございません。
浮かべられていたのは慈愛。
自身の腕の中から、こちらを見上げてくる常夜に向けられた、とても慈しみのあるお顔。
自分に全く手を伸ばさず、常夜を愛おしそうに撫でる雫姫に、時喰はしだいに苛立ちを募らせる。
「姫様! バカ猫と戯れるのもそのへんにしておきなさい。早くわたしめを手に取るのです。こうしている間にも、老いというものは体を蝕んでいくのですよ!」
雫姫は静かに首を横にお振りになり、顔を上げてこう仰いました。
「私にあなたは必要ないわ」
「なぜでございますか⁉ 先程、老いは恐ろしいと仰ったではありませんか!
「だって、常夜はこんなにも暖かいのですもの」
「は?」
「あの人の言った通りだわ。出会いも別れも、喜びも悲しみも、時の流れの中にあるのだものね。私だけが皆に置いて行かれる。これはとても悲しくて恐ろしいことだわ。老いるということ以上に」
雫姫は立ちあがり、小さな葛籠へと向かわれました。
「お前は私に老いた姿を見せたけれども、その間にある時間を飛ばしている。その間の時なくして、人とは言えないのではなくて?」
雫姫は葛籠の中より一枚の布を取り出すと、時喰にささと歩み寄り、手ぎわ良く時喰を布で包み、ぽんと葛籠の中に放り込んでおしまいになりました。
雫姫は葛籠の蓋を手に取り仰います。
「お前は都で妖をやるべきではないわ。恵あふれる山中で、守り神をするのがお似合いね」
「そんな~。待ってくださいよ。わたくしの話をもう一度聞いてくださいまし」
時喰の情けない声には耳を貸さず、雫姫はしっかりと蓋をお閉めになったのでした。
それから何日かが過ぎたある日。雫姫は数人の女房と護衛を連れ、初めて屋敷の外へとお出になられます。行先は、霊験あらたかなる滝があるという山の中。雫姫はくだんの滝のそばまで来ると、護衛に手頃な穴を掘らせ、長く伸びた紐だけを地面にだして、時喰をくるんだ布ごと穴の中に入れました。
時喰が小声で「勘弁してください」と訴えてまいりますが、雫姫はまったく取り合わず、「お前はここで山の恵みを守る守り神となりなさい」と手が汚れるのも構わずご自身で時喰を埋めてしまわれたのです。そしてその埋めた場所に、護衛が2人がかりでようやく運べるような大きな石を置かせ、紐をその石にしっかり巻きつけた後、堅く結ばれました。最後にその石に向かって、「たまに遊びに来てあげるわ」と声をかけ、足元で大人しくしていた常夜を抱き上げると山を下りられたのでございます。
無事に下山し、あとは帰るだけと、牛車に乗りこもうとした雫姫でございましたが、ふと誰かの視線を感じ、立ち止まって辺りを見回しました。すると少し離れた場所から、狩衣姿の壮年の男性がこちらをご覧になっていたのでございます。
男性は雫姫に向かってにこりと微笑むと、深々と頭を下げ、それから何事もなかったかのように立ち去って行かれる。
雫姫はとっさに周りの者たちに問いかけました。
あの方はどなたかしらと。
「確かあの方は陰陽寮の……安倍晴明様でございましたな」
護衛の者がひとり、思い出すようにそう呟きました。
陰陽寮といえば、歴を管理したり天文を見たりする以外にも、様々な穢れも払うと聞いております。
雫姫は、はっとして腕の中の常夜を見ます。
「もしかして、お前を寄越してくれたのは……」
「ミ~」
そうだと言わんばかりに常夜が鳴くと、雫姫は常夜を優しく撫でながら、安倍晴明様が立ち去られた方角に向けて、深々と頭を下げられたのでございました。
「時流れ 老いあればこそ 美しき 若き姿の 珠と映らん
……本当にもう少し勉強しなければ駄目ね」
雫姫は顔をあげてそう仰ると、口元に手をあてて、ころころと楽しそうにお笑いになり、常夜と共に牛車にお乗りになったのでございます。
これは、今は昔の物語。
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