聖なる初恋 1

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聖なる初恋 1

 朝、眠い目を擦りながらリビングに向かうと、和やかな話し声が聞こえてきた。  お父さんの声だ。  朗らかでよく通るお父さんの声が、僕は昔から密かに好きだった。  子供の頃、ベッドでお父さんの帰りを待ち侘びて、耳を澄ましていたことも思い出した。  折り重なるようにお母さんの少女のような笑い声も聞こえてくる。  二人は今、まさに幸せな時間を過ごしている。  まるで新婚さんみたいだよ。  この2年間、リビングからは朝のニュースしか聞こえなかった。お母さんは穏やかなBGMを好む人だったが、お父さんが中東に赴任してからは、ニュースを欠かさなくなった。  情勢が厳しい国への赴任は、それだけ重たかった。きっと毎日何も起きませんようにと、お父さんの無事を祈っていたのだろう。だから、あの朝はさぞかしショックだったよね。お母さんだって、すぐにお父さんの元に駆けつけたかったに違いない。  全部僕に任せてくれたお母さんの信頼が嬉しかった。 「おっと、もうこんな時間か。想を起こさなくていいのか」 「まぁ、あなたってば、想はもういい歳の社会人よ。ひとりで起きられるわ」 「はは、だが、あの子は朝に弱いからな」 「それはそうね。でも駿くんと約束しているから起きてくるわ」  わわ、急に僕の話題になった!  廊下で立ち聞きしている場合ではなかった。  僕は笑顔でリビングに飛び込んだ。 「お父さん! お母さんおはよう!」 「おはよう。あらやだ、まだパジャマなの?」 「うん、寝坊して」 「ははっ、やっぱり寝坊助だな。おはよう、想」 「おはよう! お父さん!」  暗く重いニュースが流れていたテレビはついておらず、洋楽のクリスマスソングが心地良く流れていた。 「想、25日のランチは駿くんを我が家に誘ってね」 「うん、今日話してみるよ。空いているといいけど」 「ん? 空いてなかったら、お父さんが抗議しよう」 「え?」 「ははっ、駿くんは想から誘われるのを、今か今かと待ち侘びているさ。24日は二人で過ごして来るんだろう? お父さんは我慢しないとな」 「お……お父さんってば、僕で遊んでない?」 「ん? 同じ台詞、駿くんからも言われたぞ」  お父さんは本当に明るくなった。  車椅子の生活を余儀なくされ、視界も低く狭くなり、もどかしいことも多いはずなのに……  強がりではなく、心の底から楽しそうだ。   「想は今日から仕事復帰だな。お父さんのために1ヶ月以上も休んでくれてありがとう」 「お父さんの役に立てて嬉しかったよ」 「私も心強かったよ」 「よかった」  最近意識的に変えたことがある。  小さい頃、同年代と話すよりも病院や学校、塾の先生と話す機会が多かったせいか、言葉遣いが固くなってしまい、両親にまで敬語を使う癖があった。でも……最近はもっとフランクに砕けて話せるようになりたいと、心がけている。  馴れ合いではなく、親しみをこめて。  堅苦しかった言葉の垣根も越えていく。 「想、これ食べてみて。お手製のシュトーレンよ」 「お母さんが作ったの? 久しぶりだね」 「えぇ、今年は家族でこれを一口ずつ食べてクリスマスを迎えたくて。お父さんが入院中に作って寝かせておいたの」  シュトーレンは、ドイツやヨーロッパの様々な地域で古くから愛されてきたもので、洋酒漬けのドライフルーツやナッツがギュッと入っており、生地にはバターやスパイスがたっぷりと練りこまれているので、濃厚でどっしりと風味豊かな食べ応えのお菓子だ。 「シュトーレンは日が経つにつれて生地にフルーツの風味が馴染んでくるから、少しずつ味の変化を楽しむのよ」 「『変化を楽しむ』か、まさに今の私の気持ちにぴったりだな」 「あ……」 お父さんの言葉通りだ。  僕もそう思う!  人は少しずつ変化していく生き物だ。  身体の成長だけでなく、心も成長し、気持ちも移ろいでいく。  変化を恐れずに楽しむか……  そのことに気付けたら、人生はより色鮮やかになるだろう。 「あ、こんな時間だ。着替えてくるよ」 「想は普段は落ち着いているのに、朝はルーズだな。知らなかったよ」 「お父さんにバレちゃったね」  本当にその通りだ。  急いで久しぶりにスーツを着て家を飛び出した。 「想、落ち着いて」 「うん、行ってきます!」 「気をつけてな」  お父さんとお母さんに見送りをされるなんて、一体いつぶりだろう。  照れ臭くも嬉しいよ。  エレベーターの鏡には映る顔は、なんとも面映ゆい表情だった。  そのまま真っ直ぐ交差点へ。  今日からまた駿と通勤できる!  それが嬉しくて嬉しくて。  横断歩道の向こうに、駿の姿が見えてくる。  僕の駿だ。  心の中でそう呼びかけた。  駿も僕に気付いて、手をすっとあげてくれる。  ここがもしも渋谷のスクランブル交差点だったとしても、僕は一目で駿を見つけられるだろう。そう思えるほど、僕は駿に釘付けだ。 「駿、おはよう!」 「想、おはよう。今日からまたよろしくな!」 「うん、行こうか」 「あぁ」  やっぱり普段の会話が一番だね。  何気ない日常が一番だ!  
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