忘れちまった償い

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
冬の日本海は、どんよりと、鉛色の空が低く下りて来て、広い海原に重苦しく圧力をかけていた。 海岸に打ち寄せる波は、嵐のように激しくはなく、とはいうものの、穏やかというのでもない。 詰まりは、想像通りの冬の日本海だ。 そんな、重苦しく、雪の積もった海岸線を走る列車に乗っていた。 10秒、20秒、30秒、、、。 「あ、もうだめだ。やっぱり1分持たないな。あははは。」 タクミは、その海を見ながら、もし、あの海に投げ出されたら、どのぐらいの時間耐えられるだろうかなんて遊びを、独りでやってみた。 普段なら、そんな馬鹿げた遊びはしないタクミだったけれど、久しぶりに取った連休に、すこしばかり浮かれていたのかもしれない。 タクミは、青春18きっぷという、JRの普通電車が乗り放題のきっぷを使って、東北を当てもなく旅をしていた。 昨日は秋田に泊まって、今日は青森に移動しようとしているのだけれど、普通なら奥羽本線を使うところを、五能線という海岸線を走る路線に乗っている。 リゾートしらかみという観光列車に乗ってみたかったからだ。 しかも、もし同席したのなら申し訳ないけれども、あえて、ボックス席を指定した。 4人掛けの個室になった指定席だ。 このリゾートしらかみは、指定席券を買うだけで、個室になった席にも座ることができるのである。 秋田を出発した列車は奥羽本線を走り、東能代から、五能線に入る。 そして、しばらく走ると左手に、日本海の雄大な景色が広がる。 タクミは、その車窓を楽しんでいた。 4人掛けのボックス席に、1人だけとは贅沢だなと思っていると、途中の駅から、老夫婦が乗り込んで来た。 男性は75才、女性は70才位だろうか。 ふたりとも上品な感じで、男性はスーツ、女性もちょっと高級そうなツーピースで、つばの広いハットをかぶっていた。 ああ、旅というのは、こういう風に、ちゃんとオシャレをして出かけるものだったんだな。 そうタクミは、ふたりを見ながら思った。 そういえば、おじいちゃんとおばあちゃんも、余所行きの服をきて旅に出かけていたな。 旅は、日常ではなくて、特別なハレの日。 「こんにちは。」そうご夫婦が声を掛けて、凡の前の席に座った。 「何か、わたし独りで席に座ってて、申し訳ないですね。」 そう返した。 話を聞くと、ご夫婦も、これから青森まで移動するそうだ。 「いい温泉だったね。」 そんな話を二人でしている。 「ねえ、明日は、恐山に行ってみないこと。ほら、死ぬ前に、懺悔したりしなきゃダメなんじゃないの。」 「恐山は、いまは、閉山しているよ。行っても、閉まってるんだ。というか、バスも走ってないし。」 「そうなんだ。じゃ、どこで懺悔する?」 「別にお寺じゃなくてもいいさ。」 「うん、じゃ、やっぱり、あそこね。」 「急にキリスト教に宗旨替えするんだな。」 そういうと、ふたりで顔を見合わせて、クスリと笑った。 「仲が良いですね。」タクミが話しかける。 「そうね、どっちかというと、仲が良いかもしれませんわね。あ、このみかん、甘いわよ。どうぞ。」 そう言ったら、みかんを、半分に割って、タクミに渡した。 「ねえ、青森に着いたら、ほたてを頂きましょうよ。せっかくだもの。」 「ああ、やっぱり青森は、ほたてが本場だからね。」 「その後は、八戸に行って、、、。そろそろね。」 「うん、そうだな。あまり延ばすのも決心が鈍るかもしれないしね。」 「あなた、本当に、今まで、ありがとうございました。」 「いやに、丁寧な言葉遣いをするんだな。どうも、お前には似合わないよ、そんな畏まった言い方は。」 「ううん。感謝の気持ちを伝える時ぐらいは、ちゃんとした言葉を遣いたいのよ。」 「うん。僕の方こそ、本当に、ありがとう。」 そう言って、また二人が見合わせたかと思うと、「はい、これ甘いから。」そう言って、むりやり残った半分のみかんを、グイと、ご主人の口に押し込んだ。 「んーんー。」 お主人は、苦しそうに、口をもぐもぐとさせていたかと思うと、「もう、いつも、お前は悪戯ばかりするんだな。その年で、そんなことしたら、恥ずかしいぞ。」 「いいじゃん。」 そう言って、ケラケラと笑った。 目尻を思いっきり下げて笑った奥さんの笑顔は、見ている人をも優しい気持ちにさせてくれる無防備さがあった。 しかし、タクミは、ふたりが列車に乗り込んできてから、妙に気になっていてことがある。二人の会話の、ところどころに、おかしな言葉が遣われていることだ。 青森に着いたら、恐山に行って懺悔するとか、さっきだって、奥さんが御主人に挨拶するときなんか、これで二人が解れるとか、或いは、死んでしまうとか、そんな普通ではないことをイメージさせる言葉が耳に入ってきた。 とはいうものの、ふたりは、離婚するような雰囲気も無いし、これから死のうって言う感じの悲壮感も無い。 ただ、お互いを思いやる優しさがあるだけだ。 「お二人は、観光で青森に行かれるんですよね。」 タクミは、何かを聞き出したい気持ちになって、そんな風なことを切り出した。 奥さんは、ご主人を見て言った。 「ねえ。この人に、あたしたちの事、話しておかない?」 「どうしたんだ。」 「うん。あたしたちの事を知っておいて欲しいの。これから、あたしたちが、どうするのかを。話すことで、これからあたしたちがしようとしていることに、意味が生まれると思うの。ただ、だまって実行したら、誰も、その意味に気が付かないで、そのまま忘れ去られてしまうわ。」 ご主人は、ちょっと考えて、頷いた。 「あの、お見受けするところ、真面目な方のように思えるのですが、出来たら、私どもの話を聞いてくださいませんか。」 男性の、覚悟を決めたような提案に、タクミは、ただ頷いた。 ご主人の話によると、男性は、中島良太郎、そして奥さんは、マリコというそうだ。 東京で、普通のサラリーマンをやって、定年後は、近くのスーパーでアルバイトをしているという。 聞く話では、ごく普通の御夫婦である。 「それで、あたしたちは、これから死ぬつもりなんです。」 「そうなんです。今のところ、八戸にあるキリストの墓なんか、どうかなって思ってるところなんです。」ご主人が、続けて言った。 「はあ。キリストの墓、、。えっ、というか、死ぬって。」 「そうなの。八戸に、キリストの墓と言われてるところがあるのね。そこで死んだら、きっと許しが貰えるような気がして。」 「許して貰えるとか、どういう意味なんですか。それに、さっき、懺悔とか何とか、そんなことも、おっしゃってられましたよね。」 そう聞いたら、ご主人が、ゆっくりと、低い声で言った。 「実は、私どもは、人を殺したことがあるのです。正確に言うなら、殺したのは、妻なんですが、まあ、私も同罪というか、人殺しの一員なんです。」 タクミは、その言葉を聞いて、事実なのかと疑っていた。 「殺したというのは、誰を、どうやって。というか、どういうことなんですか。」 「驚かれるのは無理もありません。もう40年ほど前の事になります。あれはドシャ降りの雨の日でした。私が、会社から帰る時に、雨だからと言って、妻が車で駅まで迎えにきてくれたんです。そして、その帰り道です、横断歩道も無い小さな道から小学生が飛び出してきて、避けきれずに轢いてしまいました。」 「詰まりは、交通事故を起こしたっていうことなんですね。そして、人を轢いた。でも、その時は、子供も、まだ生きていたんですよね。」 「ええ、多分、、、。でも、もう身体も、残酷なほど変な方に歪んでいて、もうダメだと思いました。」 「あれは、可哀想だったわ。」 そう言った奥さんの言葉が、何故か、他人事のようで、変だなとタクミは感じた。 「妻は、救急車を呼ぼうとしたんです。でも、私が止めました。だって、どう見たって、もう死んでるし。わたしたち、まだ結婚して1年も経っていなかったんです。だから、どうしても、警察に捕まりたくなかった。」 「でも、ひき逃げなら、逃げても捕まるでしょう。」 「ええ、その後、何年も、人目を気にしながら生活していました。」 「それで、その轢かれた子供は、どうなったんですか。」 「ええ、亡くなられました。なんでも、母親と子供の2人暮らしで、子供が無くなった後は、もう、それは見てはいられないぐらい落ち込んでらっしゃったそうです。」 「母親に会ったことはあるんですか。」 「いいえ。そんな会わせる顔なんてありません。それに、そんなことをしたら警察に捕まりますし。」 「でも、人を車で轢いたら、それは、警察に言わなきゃいけないでしょう。これは、言いにくいけど、詰まりは、罪を犯した訳ですから。」 「勿論です。罪を犯したのは間違いありません。それに、罪を犯したなら、それを償うのは当然の事です。」 「でも、警察には名乗り出なかった。」 「ええ、妻を刑務所に入れるのが可哀想で。というか、まだ結婚して間もなかったので、引き裂かれたくなかったんです。だから、わたしが、警察に行くという妻を止めました。」 「それじゃ、被害者の気持ちは、どうなるんですか。向こうにしてみれば、堪ったものではないはずですよね。罪悪感とかなかったですか。」 「それは、罪悪感は、ありますよ。この40年間、ずっと、その事は頭から離れません。その時は、出頭するつもりだったんです。でも、妻と離れたくなかった。なので、1年だけ、1年だけ、ふたりで暮らして、それから、出頭しようと思ったんです。ただ、被害者の母親には、1年だけ待って欲しいという気持ちで。でも、その1年が、3年になり、5年になり、気が付いたら、40年経っていました。でも、もう諦めて、出頭するべきだろうと考えたんです。でも、やっぱり、別れるのはつらいので、こうなったら、ふたりで死のうと。そして、死をもって、償おうと思ったんです。」 そうご主人が説明すると、奥さんが言った。 「あれは、事故だったのよ。あたしたちにとっても不幸な出来事だったの。あたし最近思うのね。あれは、運命だったんじゃないかと。あの子供も、ひょっとしたら、あの時に、死ぬ運命だったんじゃないかと。だとしたら、その運命に出会ったあたしたちは、ある意味、運命の被害者なのかもしれないわね。」 なんの表情も見せずに、そう語る奥さんが、怖ろしいと思った。 そのタクミの様子を察したのか、ご主人が、小さな声で言った。 「実は、妻は、軽度の認知症になっていて、その時の、記憶も曖昧になってきているんです。それに、判断力も最近は、ちょっと落ちてきて、、、。変なことを言って、すいません。1日の内、半分は正常なんですが、あとの半分は、、、、。」 最後の言葉は、横にいる奧さんの事を考えてか、言葉にしなかった。 タクミは、それには答えずに、静かに頷いた。 「でも、罪を犯したら、償うというのは、必要なんじゃないかと思うんです。これから、警察に出頭するつもりもないんですか。」 「ええ、出頭しません。そもそも、罪を償うって、どうしたら良いのでしょうか。刑務所に入って、じっと動かないことでしょうか。そこで、自由を奪われることでしょうか。」 「そういうことでもない気がします。でも、被害者の母親は、辛いでしょう。」 「ええ、それは、お察しします。でも、被害者の母親の気持ちが晴れることが、罪を償う事なのでしょうか。それなら、もう必要が無いんです。何故なら、母親も昨年、亡くなられました。わたしたちが、被害者の母親の気持ちを晴らそうと思っても、それは叶わないんです。」 「母親も死んだ。ということは、被害者も亡くなって、その母親も亡くなって、もう誰もいないと。」 「ええ。だから、死のうと思ったんです。本当なら、罪の償いというのは、同じ苦しみを味わう事だと思うんです。だから、人を殺したら、殺されたその人に殺されて、それで、やっと罪を償える。わたしたちも、だから死を選んだんです。もう、被害者はいないので、自殺しようと。」 「でも、殺されるのと、自殺は違いますよね。自殺はあくまで、自分の意思でするわけだし。それで、罪が償えるのかというと、、、わたしにも分かりませんが、違う気がするな。」 しばらく沈黙があって、ご主人が言った。 「それに、妻が、もう認知症になってしまって、あたしたちが、夫婦として認識しあえるのも、あと残り僅かなんですよね。まあ、これは、私どもの勝手な言い分ですけれど。でも、最近は、妻が、人を殺したという記憶さえも、曖昧になる瞬間があるんです。もし、妻が人を殺したという記憶を完全になくしたら、、、、たとえ、自殺しても、罪を償うという意味がなくなってしまいます。」 本当の話なのかと疑っていたタクミではあったが、ここまで話を聞いたら、やっぱり本当のことなんだなと思い始めていた。 罪を償うということは、どういうことなんだろう。 確かに、刑務所に入って小さな箱に閉じ込められることが償うと言う事だろうか。 もちろん、罪を犯したら、罰を受けるという社会のルールがあるけれども、それは罰であって、償うということとも違う気がしていた。 罰を受けたら、償ったことになるのは、イコールではないはずだ。 それじゃ、被害者の母親の気が晴れることをするのが罪を償ったことになるのかというと、それも違う。 あくまでも、被害者と母親は、別の人格だ。 被害者の気の晴れることをすると言うのなら分かるけれども、その被害者は、もういない。 このご主人と奥さんの場合は、どうだ。 被害者は亡くなっている。 母親も亡くなっている。 そして、罪を犯した奥さんの記憶が曖昧になってきている。 詰まり、この人を殺したという罪が、風化し始めているのだ。 このまま、あと1年したら、3年したら、5年したら、もう奥さんの記憶からは、事故の事は、すっかり消え去ってしまって、ただ、ポツリと、罪だけが、どこかの荒野に置き去りにされてしまうだろう。 時間という年月が、罪の存在を消してしまう。 いや、それでも、そこに罪はポツリと残ったままなのだろうか。 タクミは、罪を償うと言う事と、自殺をするということは、まったく関係ないことだとは思ったが、ただ、ご主人が、自殺を急いでいるという気持ちは、理解できると思った。 急がないと、罪が消えてしまう。 その罪を夫婦の記憶から消さないことが、夫婦にとっての罪の償いでもあるかのように。 だから、消える前に、死のうと。 そして、その自殺に意味を持たせるために、タクミに、このストーリーを託したのかもしれない。 これからしようとしている自殺は、罪を償うためであることを、誰かに覚えていて欲しくて。 誰にも知られずに死んだら、ただの老人の意味の分からない変死になってしまうから。 そこまで、話して、あとは、ただ、沈黙が続いた。 そして、青森駅に着いた時、ご夫婦は、静かに頭を下げた。 「あの。それで、これから、キリストの墓に行かれるんですか。」 このまま、黙って別れるには、気が重い。 「ええ。そのつもりです。せめてもの、罪の償いをして、キリストに懺悔しようと。」 「そうですか。ご夫婦の選んだ道ですから、わたしは、何も言うことはありません。というか、どうするべきかなんてことは、私にも分からないんです。」 ただ、それだけしか、伝える言葉が見つからなかった。 「ねえ。青森に住んだら楽しいと思わない?」 「ああ、そうだね。でも、僕たちは、八戸に行かなきゃいけないからね。」 「八戸?あ、そうだ。キリストさんね。懺悔しなきゃだもんね。」 そう言った奥さんの声は、弾んでいた。 果たして、今の彼女の記憶に、人を轢いた時の事は、残っているのだろうか。 タクミは、青森の商店街に消えていくご夫婦の後姿を見送った。 仲良く手を繋いで歩く姿は、どうにも美しく見えた。 青森で、2泊して、そこから函館に抜けるつもりでいたけれども、どうも、ご夫婦の事が気になる。 タクミは、予定を変更して、八戸に向かっていた。 そして、車を借りて、新郷村にあるキリストの墓に向かったのである。 昨夜からの雪で、まわりは一面の銀世界だ。 キリストの墓は、想像したより整備されたところにあって、こんもりとした土が盛られた場所に、キリストと、弟のイスキリの2つの墓が、風に吹かれて、飄々と存在した。 タクミは、キリストの墓のまわりを探そうと思ったが、まわりは山である。 探そうにも、山に入って行くわけにもいかない。 念のため、キリストの墓の敷地にある伝承館に、ご夫婦を見かけなかったか聞いてはみたが、覚えていないという。 タクミは、キリストの墓の前に立って、あたりの山を見た。 「あなたたちは、そこにいるのですか。」 そう呟く声を、風の山の樹々を吹き抜ける音が、かき消した。 ひょっとしたら、この山のどこかに、ご夫婦が横たわっていて、そこに昨夜からの雪が、降りつもって、誰にも知られずに、ひっそりと、そこにあるのかもしれない。 果たして、ふたりは、キリストの墓の前で、懺悔したのだろうか。 そして、キリストは、その罪を許したのだろうか。 ふたりがどうやって、死んだのかなんて、もう、どうでもいい。 おそらく、クスリを奥さんに飲ませて、その後に、ご主人も飲んだに違いない。 この寒さなら、数時間も横たわっているだけで、静かに死ぬことができただろう。 ふたりの願いが叶ったというわけだ。 今、ふたりの肉体は、この山のどこかに、静かに横たわっているのだろう。 そして、その上に、真っ白の雪が、降りつもっている。 その白さは、まるで、ふたりの罪は消えたと、そう証明しているかのようであるに違いない。 いや、しかし、本当に、ここで夫婦は、自殺をしたのだろうか。 その形跡は、どこにもないじゃないか。 タクミは、キリストの墓に手を合わせて、そして、その日のうちに、新幹線で、東京へ帰った。 東京駅についたら、雑踏にもまれながら、この東京のどこかに、被害者と、母親の無念が、彷徨っているのではないかと思いを馳せてみたが、タクミには、その声は聞こえてこない。 彷徨っている魂は、果たして、夫婦の死が、償いに見えているのだろうか。 ただ、生きている時は、許せない夫婦だったことは、間違いないだろう。 受けた恨みは、時間とともに、増幅していくものなのかもしれない。 しかし、罪の意識は、年とともに消えてゆく。 数か月後、秋葉原駅のホームに降りたタクミは、後の方で、奥さんの声がしたような気がした。 「ねえ。お昼は、てんぷらが食べたいわ。」 楽しさに溢れた声だった。 確かに、奥さんの声に似ている。 振り返ってみたが、そこに、奥さんはいない。 東京では珍しい粉雪が降り出した。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!