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覚悟していたよりも遥かに重々しい音が響き、血と肉が四方八方に飛び散った。
コーメイの目の前で、栗色のロングヘアの少女――山野リコは俯せに横たわり、微動だにしない。
十二階建てのビルの屋上から飛び降りたのだから、生死の行方は明らかだ。
「……勘弁してくれよ。これから昼飯を食おうかってときに」
コーメイはため息をつき、後頭部をかく。
さほど背丈が高くないビルが林立する、駅前から近い現在地周辺は、人通りは途絶えている。誰かに目撃されていれば、より面倒くさい事態に発展していただろうから、不幸中の幸いといえる。
そう前向きに考えなければ、やっていられない。人が死ぬというのは、そういうものだ。
ジーンズのポケットの中でスマホが震えた。太ももの肉に圧迫されて、取り出すのに軽く手こずる。テーコからの着信だ。
「もしもし。どうかしたの?」
「山野リコは?」
か細く平坦な少女の声が、単刀直入に問うた。
テーコがいる世界では音楽が流れている。耳を澄ませてみて、「八百屋のたいなか」のテーマソングだと判明した。野菜を食べると体にいいという趣旨の歌詞の、底抜けに明るいメロディが特徴的な歌だ。
コーメイは息を呑み、山野リコが飛び降りた雑居ビルを仰いだ。そして、頭の中で地図を広げる。
視線の先にある雑居ビルは、界隈に建つ建物の中ではもっとも高い。「八百屋のたいなか」近くの路上からビルのほうを見たならば、屋上の様子がおぼろげながらも視認できるはずだ。
「……テーコ。もしかして、山野リコが飛び降りる瞬間、見た?」
「もう死んだんでしょ。気になるから、様子を教えて」
「死んだけど、だめです。十三歳には刺激が強すぎる」
「まだ十二だけど」
「じゃあ、余計にだめ。先にファミレスに行って、食べてなよ。おなか減ったって言ってたよね」
「教えてくれたら行く」
「しょうがないな。簡単に説明すると、右脚がL字型定規みたいになってるよ。全体的に言うと、トマトだな。潰れたトマト」
「もっと詳しく」
「だめ。もうおしまいです。じゃあ、五分後くらいにね」
食い下がってくる気配を感じたが、通話を切った。ため息をつき、スマホを戻そうとしたところで気がつく。
「連絡しておかないと」
119番に電話をかけ、必要事項を速やかに伝える。それに続いて、依頼者である山野ルルカ宛のメールを作成し、送信。今度こそジーンズのポケットに押しこみ、短く息を吐く。
「さてと、腹ごしらえといきますか」
飛び散った赤を踏まないように気をつけながら、現場をあとにする。
依頼者の娘の死体の傍らに佇み、救急車が到着するまで待機するのは、説得屋の仕事の範疇ではない。
ファミレスのドアを潜ると、テーコは順番待ち用のベンチに腰かけていた。
ドアベルの音色に反応し、膝を見下ろしていた顔が持ち上がる。いつも貼りついている無表情は、コーメイが到着した事実を知っても変化しない。「遅いよ」と頬を膨らませるのでも、無事に合流できたことに安堵するのでもなく、叔父の顔をじっと見つめる。テーコという少女を知らない人間が見れば、薄気味悪く思ったに違いない。
「待つのが一人だけとは災難だね。日曜日だからお客さんが多いんだ?」
「分からないけど、多分そう。でも、待っているのはわたしだけだから」
「不幸中の幸いってやつだね」
隣に腰を下ろし、体を斜めにして姪に向き直る。テーコは無意識のように、華奢な肩にかかるさらさらの黒髪を撫でた。
「それにしても、腹減ったな。テーコはなに食べたい? もう決めてる?」
「山野リコは」
「電話で伝えたとおりだよ。それ以上の情報は十五禁だから、三年後にでも訊いて」
「でも、知りたい。トマトっていう比喩を使っていたけど、具体的にどんな感じ? 内臓は出た? 赤いの?」
「ちょっと、ナポリタンを食べる予定なのに思い出させないで。叔父さんもグロ耐性はまあまああるけど、スーパーマンじゃない」
「山野リコの内臓は? 脳味噌は飛び出たの? 頭蓋骨はぱっくり割れた?」
コーメイの軽口を無視しての質問攻め。どうやら本気で知りたいらしい。
テーコは年齢を重ねるにつれて、残酷だったり、危険だったり、怪しげだったりする事象や物事に対する興味を深めている。中学生になったのを境に、その傾向に拍車がかかった。雑居ビルの屋上に山野リコの姿を発見したときも、飛び降りる場面を見たいと駄々をこねて、コーメイを手こずらせた。時が経ち、場所を変えても尋ねてくるのだから、願望の強さは並大抵ではない。
弱りましたね、これは。
後頭部を軽くかきむしったところで、コーメイのスマホが震えた。発信者を確認して、思わず声を漏らしてしまった。山野ルルカからだ。
テーコは叔父の横顔を凝視している。会話を一言も聞き漏らすまいと構えている。やれやれ、と思いながら電話に出る。
「お世話になっております、説得屋です。山野さん、どうされました?」
山野リコは救急車で病院に搬送されたのち、死亡が確認された、という報告だった。娘を永遠に失った悲しみ。尾行の依頼を引き受けながら、みすみす自殺を許したコーメイに対する怒り。そのどちらも感じられない、淡々とした口振りだ。
山野ルルカには、依頼を受けたさいに面談を実施したが、情緒面に欠陥がある人間という印象は受けなかった。感情を抑制してしゃべる人ではあったが、娘の死を聞かされれば、誰だって少なからず心が乱れるものだ。説得屋を名乗る得体の知れない男に大金を支払ってまで娘を助けようとしたくらい、娘に強い愛情を持っているのだから、むしろ取り乱さないほうがおかしい。
冷淡なほどに沈着冷静な山野ルルカの振る舞いを、どう解釈すればいいのだろう? 自殺をほのめかしていたとはいえ、突然であることには変わりない娘の死をすんなりとは受け入れられず、ある種の放心状態に陥っているのだろうか。それとも――。
いくつかの必要事項についてやりとりを交わし、山野ルルカとの通話は終わった。見計らったようにウエイトレスが現れ、空席が生じた旨を伝えたので、テーコとともにベンチを立つ。案内されたのは、店のほぼ中央に位置する二人掛けの座席。
コーメイは若鶏のグリルとエビフライのセットとライスの大盛りとスパゲティカルボナーラを、テーコはカレーピラフを、それぞれ注文した。
「自殺死体なんて見ちゃうと、さすがに肉が食えなくなるね」
去りゆくウエイトレスの背中を見送りながら、コーメイはセルフサービスの水を一気にグラスの半分ほど飲んだ。
「叔父さん、自分が注文したものを忘れたの」
テーコはおしぼりで入念に手を拭きながら、ドリンクバーで長々と留まっている家族連れを眺めている。
「食欲が減退したっていう意味であって、一口も食べられなくなったわけじゃないから。考えてもみろよ、テーコ。叔父さんが飯を食えなかったことって、ある? ないでしょ。太陽が西の空から昇るくらい有り得ない」
「炭水化物と炭水化物」
「俺にとってスパゲティは副菜に過ぎないからね。断じて主食ではないのだよ、主食では」
「かわいそう」
テーコは無感情につぶやいて、すみれ色のスマホを触りはじめた。山野リコの遺体の様子を知りたい気持ちは、ようやく鎮火したようだ。
「テーコ。注文を追加したいなら、どしどししてもいいからな。残念な結果にはなったけど、とりあえず仕事は終わりってことで、打ち上げみたいなものだから」
「そんなに食欲ない」
「少なくない? カレーピラフだけって」
「そんなことない」
「エビフライ、一本あげようか」
「いらない」
「じゃあ、スパゲティ半分いる? あ、やっぱ三分の一にして」
「炭水化物と炭水化物」
「そう毛嫌いしなくてもいいじゃない。痩せている人ってさ、デブは炭水化物が好き、デブは炭水化物が好きって散々馬鹿にするけど、デブと炭水化物に対する当たりがちょっときつすぎない? 被害妄想かな」
真っ先にカレーピラフが到着し、追いかけるようにコーメイが注文した料理がテーブルに運ばれてきて、食事がはじまった。
「テーコ、食べるペース遅くない? カレーピラフ、永遠に一口ぶんしか減っていないように見えるぞ」
「食べてるよ。叔父さんが早いだけ」
そうかな、と答えて、大きく切った若鶏を口に押しこむ。コーメイが注文した料理はどれも残り半分程度になっていて、ライスの皿に至っては早くも完食寸前だ。
「少食だし食べるの遅いの、真逆の俺からすると心配になるんだよね。無理してるんじゃないか、痩せ我慢してるんじゃないかって。本当にそれで足りる? もっと注文しなくて平気?」
「平気。おじさんの前で遠慮したこと、ないし」
「本当かなぁ。エビフライ、一本いる? 今ならタダだよ」
テーコはその言葉を無視してカレーピラフを口に運ぶ。コーメイはおどけたように肩をすくめ、あげると言ったばかりのエビフライを箸で掴み、さくさくと音を立ててあっという間に食べきった。
もう一品、メイン級の料理を頼んでも平らげられそうなくらい、食は進んだ。山野リコの件が蒸し返されることがないおかげで、会話も弾む。
しかし、五人組の少女が入店したことで、テーブルの空気は一変した。
「テーブルは四人がけだから、五人だと一人余っちゃうね。どうするのかな」
コーメイが彼女たちを話題に取り上げたことに、深い意味はない。たまたま視界に入ったから、言及してみた。それ以上でもそれ以下でもない。
「二席占領するのか、無理矢理五人座るのか。どっちだろうね?」
紙ナプキンで軽く口元を拭い、テーコは五人のほうを向いた。瞬間、凍りついた。スプーンを動かす手も、カレーピラフを咀嚼していた口も。
「テーコ?」
コーメイの声にテーコは我に返り、顔の向きをピラフの皿に戻して食事を再開した。
以降のテーコは、五人をしきりに気にするようになった。よそ見をするせいで、たびたびピラフがテーブルの上にこぼれる。普段の行儀のよさは見る影もない。
「テーコ。もしかして、あの子たちと知り合い?」
「うん。クラスメイト」
テーコの顔は浮かない。表情に変化は乏しくても、姪のこまかな感情の変化を読み取る能力がコーメイにはある。どうやら、良好な関係を築いている相手ではないらしい。
五人とのあいだになにがあったのかは分からない。テーコの性格を考えれば、尋ねたとしても簡単には答えてくれないだろう。
大きくカットした若鶏に、しょうゆ味のソースをたっぷりとつけて口に運び、咀嚼しながら思案する。この状況、どう動くのがもっともテーコの利益になるだろう?
「――よしっ。テーコ、店を出ようか」
若鶏を嚥下し、コーメイは毅然とした口調で告げた。一口ぶんには少なすぎるカレーピラフをすくったスプーンが虚空に停止し、驚きに包まれた顔が叔父を見返す。コーメイは森羅万象を肯定するように大らかに微笑する。
「テーコ、なんか楽しくなさそうな感じじゃない。だったら、無理にこの場で食事を続ける必要はないよ。出よう、出よう」
グラスの水を飲み干して立ち上がり、伝票を手にしたところで、テーコに袖を掴まれた。
「叔父さん、待って。……どうして」
「理由なら言ったばかりでしょ。食事なら別のところでするし、もちろん俺の奢りだから安心して」
「……せっかく注文したのに」
「金はちゃんと払うんだから、残したって構うもんか。ほら、行こうぜ」
テーコは袖から手を離し、腰を上げた。逡巡するように立ち尽くしたが、すぐにコーメイの後ろに従った。
精算しているあいだ、テーコは五人のほうばかり気にしていた。
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